Brilliant Emerald

第十一章

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「トイラ、何を今更迷ってるんだ。もう時間がないぞ」
 ユキの命が消える──。
 切羽詰ったこの瞬間、何が正しいかなどキースはもうどうでもよくなった。
 反応を示さないトイラにキースは意地になって何度とせか す。
 ユキの胸のアザはほとんど満月と見間違えるほどの形になっていた。
 あと数分程で満月になる。
 それはユキの死へのカウントダウン。

 キースも仁もまるで荒波の海の中に投げ込まれ、なす術もなくただ丸太に捕まって流されているようで絶望感漂う。
 トイラは神色自若でユキを見据 えている。
 さっきまでの焦りは漂白され、恐れまでも存在しないくらいの穏やかな表情をしていた。
 突然眉をキリリと上に上げ、精悍な表情をキースに向ける。
 情熱と強烈な精神が緑の目に映し出された。

「キース、お前は本当にいい友達だ。俺にはもったいないくらいの親友だ。願わくばこれからもそうでありたい」
「トイラ、こんなときに何を言ってるんだ」
 トイラは次に希望に満ちた光を帯びた目を仁に向けた。
「仁、ユキを思う気持ち、俺と同じ。お前は優しい男だ。お前の方がユキに相応しいのかもしれない」
「ユキの命の玉を取るからって、僕に同情しているのか」
 ずたずたになった心に冷気を吹きさらされたように仁の心は痛みで沁みわたった。
 この場に及んでの慰めなど神経を逆なでされるだけだった。

「違うんだ、ユキを助ける方法がわかったんだ。大蛇の森の守り主が言っていた言葉の意味がやっとわかった」
 その言葉は二人の体を突風のように通り抜けると同時に、不安と悲しみを一気に消し去った。
「ジーク、そこに突っ立ってないで、こっちにこい。早く」
 トイラに呼ばれてジークは恐る恐る近づいた。
 キースも仁も何が起こるのかと目に力を込めて固唾を呑んだ。
「ジーク、お前が取った行動は許されるべきではない。だが、これは全て大蛇の森の守り主が仕組んだこと。お前もまた森の守り駒として必要な存在だった」
「なんのことだ、トイラ」
「いいか、ジーク良く聞け。これからは森に忠誠を誓え。そうすればお前は許される。もう何を言われても逃げるんじゃない」
 ジークはトイラの言ってる意味がよくわからないのか、混乱していた。
 その場ででくの坊のようにただ突っ立っている。

 トイラは再びユキに焦点を合わせる。
 魂に刻まれたユキへの愛を再確認しながら、愛しく髪の毛一本一本にまで愛撫するように眺める。
「ユキ、俺はお前に会えて本当によかった。これもまた俺には必要なことだったらしい。お前に恋をして愛するということを学んだ。俺は本当にお前を愛して る。ユキ、今までありがとう」
 キースと仁はその言葉を聞くと、奇妙な顔つきになり、頭の中で疑問符が乱舞していた。
 ──トイラは一体何をするつもりなんだ。
 キースと仁は真の意味を知りたいがためにお互い顔を見合わせる。
 ユキは虫の息の中、必死でトイラに触れようと手をあげた。
 トイラはしっかりと愛情を込めて握ってやった。

 そしてとうとうその時がきた──。
 ユキの胸のアザが満月となり、胸から眩いばかりの光が放たれた。
 それと同時に割れた太陽の玉が浮きあがり、また一つの形に戻ってユキに近づいてくる。
「あっ、太陽の玉が元に戻った」
 キースもジークもたじろぐほど驚いた。
 トイラはユキを深く抱え込み、この時がチャンスだと自分の口をユキの唇に重ね、もてる限りの愛を込めてキスをした。
 太陽の玉がトイラとユキの頭上に現れ、回りながら光を放すと、二人は天使に包み込まれたように金色に輝いた。
 一体何が起こってるのというのだろう。
 ユキは助かるのか。
 二人を照らす輝きが周りのものを押さえつける。
 そのまま黙って見てろと光は邪魔を一切許さな い。
 儀式とでもいう神聖な次元でトイラとユキは光のカーテンに覆われて隔離された。


 トイラとユキは無防備に一糸まとわぬ姿をさらけだす。
 魂と魂の触れ合い──。
 二人の愛は体の中が透けて見えるように熱く赤く燃えていた。
 お互い見つめ合い、寄り添って体を重ね合わせ一つになり、トイラとユキの鼓動が同じリズムを打ち出して、ずれることなくシンクロナイズされる。
 トイラの腕の中で強く強く抱きしめられる程、ユキは跳ね返るような弾力を感じていた。
 トイラはしなやかで柔らかいユキの体がマシュマロを突きつけられて いるように思えた。
 このままずっと抱きしめあっていたくなるほどの心地良さは暫し二人に与えられた特別のプレゼントだったのかもしれない。
「トイラ」
 愛しくユキは呟く。
「ユキ、愛してるよ」
「私も愛してるわ、トイラ。私はもうあなたの中に存在しているのね」
「違うよ、ユキは助かるんだよ。もう何も心配することないんだ」
「でも、私はあなたといつまでも一緒にいたい」
「ああ、ユキが望むならそうなるよ」
「えっ、私が望むなら? どういうこと?」
「ユキ、俺はもう黒豹じゃなくなる。この人の姿のままさ」
「トイラ、人間になったの?」
「ユキ、もう目覚めるんだ。みんな心配している」
 トイラの姿が徐々にかすんでいく。
 ユキは必死に掴もうと抱きつくがトイラの体を感じなくなった。
「トイラ、待って、行かないで」
「どこにも行かないさ。俺は君のすぐ傍にいる。すぐ傍に」
 トイラの姿は見えない。
 だがユキには感じる。見えなくともそこにトイラがいるということが。
 必死に辺りを探し回る。
 そして急激に刺すような強い光が突然 目の前に現れ、ユキは眩しさで目を細めた。
 そしてその光が徐々に和らぎ優しい光となったとき、聞きなれた声を耳にする。
 キース と仁の声だった。


「ユキが目覚めた。助かったんだ」
「ユキ!」
「私、一体…… あっ、トイラ!」
 トイラはユキを抱きかかえ、優しく天使のように微笑んでいる。
 ユキは自ら体を起こすと同時にトイラの手がふーっとユキから離れて行った。
 トイラは意識が 遠のき、崩れていくようにばたりと倒れてしまった。
「トイラ! どうしたの」
 ユキはトイラの体を抱きかかえる。
 魂が抜けたような空っぽの体の先でグニャっと首がうなだれた。
 血の気がさっとひき、真っ青な顔つきとなって、ユキは震えながら何度もトイラの頬を撫でる。
「お願い。目を覚まして」
 その言葉に反応するように、ユキの胸のアザが光りを放ち、月の玉が浮き上がってゆく。
 ユキの体から抜け出ると本来の場所に収まりたいと機敏な動きでトイラの胸へめがけて入り込んでいった。
 太陽の玉も追いかけるようにトイラの体の中 へと溶け込んでいく。
 再び眩いばかりの光がトイラから放たれ、光が消えると同時にトイラは黒豹へと姿を変えた。
 ユキは黒豹のトイラを抱きかかえている。
 トイラの首がかすかに 動くと、緑の目が黒い体に映えるように輝いた。
 黒豹はユキの腕の中で意識を吹き返すと、突然驚いたように飛び上がって勇ましく構えだした。
 様子をさぐりながら、じりじりと後ずさりをしてはグルルルと小さく唸って威嚇していた。
 ユキはトイラが無事だったことで安心しきっている。
 何もかもうまく行った。
 一時の喜びが胸いっぱいに広がり安堵のため息が洩れた。

「トイラ、私生きてる。あなたが救ってくれたのよ。ありがとう」
 もう何も心配することはない。
 喜び勇んでユキがトイラに近づこうとすると、トイラはまた後ろへ下がった。
 その目つきは野獣のごとく、人としての心を持っていない。
「お前は誰だ」
 耳をふさぎたくなるその言葉はユキを打ちのめす。
 嫌な予感がしてならない。
「森の守り駒はいないのか」
 トイラが威厳ある声で指令をするように吼えた。
「トイラ、どうしたんだ。何があったんだ」
 キースが眉間に皺を寄せ、心配して覗き込む。
「お前は、狼だな。名は何と申す?」
 キースは電流が流れたごとくはっとした。
 条件反射のようにトイラの前に跪いた。
「私はキースと申します。森の守り主」
 キースが言った言葉はユキの骨の髄まで衝撃をもたらした。

「トイラが森の守り主……」
 思わず呟かずにはいられなかった。
「そっちに居るのは、コウモリか。お前の名はなんと申す」
 トイラはジークに鋭い目を向けた。
 ジークもその状況をすぐに飲み込み、さっと跪いた。
「はい、私はジークと申します。森の守り主」
「そうか、キースとジークか。お前達二人は森と私に忠誠を誓うと約束できるか」
「はい」
 キースもジークもしっかり返事を返す。
 もう状況はすっかり飲み込んでいた。
 ユキも仁もその光景をみて圧倒される。

「そこにいる二人は人間だな。我々と交流を持つのは許されぬ行為。キース、ジーク、我々と接触し、我々を知っている全ての人間の記憶を抹消せよ。それが私の最初の命令だ」
「かしこまりました。森の守り主」
 キースとジークは忠実に答えた。
「ここは私の森ではない。すぐに戻らなければ」
 黒豹のトイラは踵を返す。
「待って、トイラ」
 ユキに呼び止められて、黒豹は咄嗟に立ち止まるが、尻尾をうねらせ振り返るか、返らないか躊躇している。
 暫く体は銅像のように動かない。
「私を忘れたの。ユキよ。行かないで、トイラ」
 ユキの心からの叫び声は黒豹の迷いを打ち消した。
 無視できないとゆっくりと振り返り、ユキを黙って食い入るように目を備え付けた。
 ユキを思い出そうとしているのか、緑の目は深みを増して強く魅入る。

「お前が呼ぶ、トイラというその名前は、私の名前なのか」
 ユキはコクリと頷くが、我慢できない感情が押し寄せ涙がじわっと溢れ出す。
 ──トイラは何も覚えてない。私のことさえも!
 自分の思っていることが嘘であって欲しいと強く願えば願うほど、体が震えて絶望感に震えてしまう。
 黒豹はユキを思い出せない。
 だが目の前の人物が自分に影響を与えたことはユキの涙で感じ取れた。
 それに応えるのが礼儀だと、黒豹はユキの元へと歩む。
「私は森の守り主。その前の記憶はもうない。全てのことを捨て、森の守り主になる定め。だが私にはわかる。私が森の守り主になるためには、お前が必要で あったということが。トイラはお前に全てを託したみたいだ。私からも礼を言おう。ユキとかいったな。トイラはお前と出会えて幸せだったことだろう。もう私 にはどうすることもできない。どうか忘れて欲しい」
 威厳溢れる話し方。
 もうそこにはトイラの面影は何一つ残ってなかった。
 黒豹は美しく輝く緑の目でしっかりとユキを見つめる。
 その目の奥にはトイラの記憶 は映し出されないことをユキに知らせ、そしてしなやかな背中を見せ森の奥へと消えていった。
 ユキはただずっとその場に立って見ていることしかできなかった。
「トイラ……トイラ!」
 ユキは叫べるだけのありったけの声を張り上げて叫んだ。
 その悲痛な声も思いも黒豹にはもう届くことはなかった。


「ユキ、僕にもわかったよ。トイラが君を助けた方法が」
 キースがユキの肩に優しく触れた。
「太陽の玉が割れて、ジークが暗闇に引き込まれそうになったのをみて、気がついたんだろう。トイラは以前にも言っていた。森の守り主の力が体から出てきた とき、自分という存在がいなくなったって。森の守り主になるには、こうならないとなれなかったんだよ。そしてユキの知っているトイラはユキの中にいる」
 ユキは胸を押さえた。
 薄々感じていたことだった。トイラは自分の命の玉を吹き込んだことを。
「でも、私、トイラを側に感じないわ」
「ユキ、君は人間だ。僕達と違って同じような影響が出るとも限らない。多少の違いがあるのかもしれない。だけど、ユキのその命はトイラの命には変わりな い。君はトイラとともに生きているよ」
「嫌、こんなの嫌。トイラが側にいないなんて、嫌!」
「ユキ、僕だってトイラを失って悲しいんだ。あいつ最後に僕のこといい友達だって言って、去っちまったなんて信じられない。森の守り主が側にいたところで、もうトイラじゃない。僕も苦しいよ」
「キース……」
「でも僕はやらなきゃいけないことが一杯だ。しっかりと命ある限り、黒豹の森の守り主に忠誠を誓って、任務を遂行する。だからユキもしっかりと生きろよ。 ユキのことは忘れないよ。ほんとに楽しいひと時をありがとう」
 キースはユキの頬に軽くキスをした。
「キース、また会えるよね。これが最後じゃないよね」
 ユキは本当はわかっていた。これが最後のお別れだということぐらい。
 でも違うとキースの口から嘘でも聞きたかった。
 キースは何も言わず笑っていた。
 いつもの素敵な、あの女生徒達を魅了した、さわやかな笑顔だった。
 だか目は水面が溢れるくらい潤んでいた。
 泣き顔を見せ まいと、楽しく笑う顔だけをユ キに見 せ るために必死に微笑む。
 そして仁に向かって、挨拶するように一度手をあげ、狼の姿になって走って森の奥へと消えていった。
「キース、さようなら。ほんとうにありがとう」
 ユキは小さく呟いた。
「さて、私も行かねば」
 ジークが恥ずかしそうに二人に声をかける。
「ユキ、そして仁、今までのこと許して貰えるとは思っていない。だか私が犯してしまった数々の無礼は心から謝る。本当にすまなかった。そしてこれからは償 いのために も、 私もまた、森と黒豹の森の守り主のために忠誠を誓うよ。仁、私を救ってくれてありがとう。この恩を一生忘れ ない」
 ジークは握手を求めると、仁は快く受け入れた。
 その握手は仁の体の中へ風を吹き込んだかのように、髪の毛がふわっと一度なびいた。
「お詫び、またはお礼といってはなんだが、これをやる」
 ジークは懐から小さな巾着袋のようなものを取り出して仁に渡した。
「これから私達のことを知った人間のすべての記憶を消すが、お前達の記憶だけは消さない。だが、もし消したいと思ったときは、自らするがいい。それはその ためのものだ。使い方は、仁、一度見てるからわかるだろう」
 仁はその袋を見て、あのときの銀に輝く砂が入ってるとすぐに理解した。
「ユキ、私は今まで逃げていた。その心の弱さが卑屈な自分にしていた。でも心を入れ替えて頑張ってみる。こんな私が言えた義理でもないが、君の涙を見てい たら、つい言いたくなった。だからユキ も頑張れよ。私の様に逃げるんじゃないぞ」
 ジークもまたコウモリになって飛んで二人の前から姿を消した。
 ユキと仁はそのまま暫く森の中で棒のように立ちすくんでいた。
 空からはポツポツと雨が降り始め、そのあと激しく刺すように落ちてきた。
 雨なのにユキの体に刺さるように降り注ぎ、とても冷たく痛く感じられた。
 体の奥にまで滲み込んでいくようだった。
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