Brilliant Emerald

第二章

5 

 トイラに手を触れられてから、ユキのドキドキがずっと続いてしまった。
 その後、無言が続き、自分がぎこちなくなっている。それを悟られているんじゃないかと思うと気が気でなく、またお皿を落としそうになり、ヒヤッとした。
 トイラがそれをがっちりと掴めば、真横にいるトイラの存在をユキは強く感じた。
 洗い物はお皿があと一枚というとき、ユキはこの状況から解放されると思うと同時に、名残惜しくもなってくる。
 トイラは乱暴で冷たいくせに、優しい。
 油断して近づこうとすれば、容赦なく突き放される。
 ユキとトイラには一線が引かれて、トイラはそれ以上ユキが踏み込むのを拒絶しているかのようだ。
 振り回されすぎて、ユキはトイラの傍にいると心乱され疲弊してしまっていた。
 これでは身がもたない。
 リラックスするにはお風呂が一番。
 夕食の片づけが終わった後、風呂に入る事を理由にそそくさとトイラから離れた。
「お風呂入るけど、覗かないでよね」
 捨て台詞のようにユキの口調はきつかった。何に対して怒っているのかわからない。
 トイラたちはそんな事絶対しないとわかっていても、ユキも憎まれ口を叩かないと気がすまなかった。
 というより、自分を保てなかった。
 トイラは何も言わずに美しい緑の目をユキに向けた。
 そこには何が宿っているのかわからないが、少し憂いを帯びていたように思えた。
 その目が頭からはなれないまま、ユキは湯船に浸かり、ため息を吐く。
 まだ出会って間もないというのに、ずっと一緒に暮らしているようにも思えてしまう。
 腹が立つのに、心底憎みきれない。トイラは変わり者とわかっていても、ユキはもっと違う何かを見ているような気がした。
 また胸が熱を持ったように疼いた。
 ふと視線をそこにむけると、何かがおかしい。
「あれ、これなんだろう」
 ツキノワグマのように模様が浮き上がっていた。
 それはまるで新月から現れる細い三日月のようになっていた。大きさにして五百円玉くらいのサイズ。
 気絶したときに胸をぶつけて痣になったのだろうか。
 時々熱を感じて疼くのはそのせいに違いない。
 そんなに気にするものではないと、その時は軽く見ていた。
 改めて温かいお湯に深く体を沈め、頭の中を空っぽにして体の力を抜く。
 リラックス、リラックス。
 いつもは静かであるはずなのに、外の様子が騒がしくなっている。
 また猫の声が聞こえてきた。
 不思議に思い、ユキは湯船から出て風呂場の窓をそっと開けて覗いてみる。
 あの時のように、うじゃうじゃと猫が再び集まっていた。
 その中心にトイラが混じっていたから、余計に驚いた。
 猫はトイラの足元で頭を擦りつけ、次から次へと甘えるように擦り寄っている。
 声を掛けようかと思ったが、自分が丸裸だったのを思い出し、ユキははっとして窓を荒く閉めてしまった。
 
「ユキ、長風呂だね」
 居間のソファーでテレビを観ながらくつろいでいたキースが振り返って声を掛けてくる。
「ねぇ、トイラは?」
「部屋じゃないの?」
「でもさっき、庭で猫とじゃれてなかった?」
「えっ? そうなの? だったら、餌でもやってたんじゃない?」
 キースはテレビ画面を見つめそっけなく言った。
「えっ、それは困る。この辺に住み着いちゃうじゃない」
 ユキはすぐさま二階へと階段を駆け上っていった。
 知らないうちに猫の餌付けされていたとは思わなかった。
 だから野良猫がたくさん寄ってくるに違いない。
 そう思ったユキは、トイラの部屋に駆けつけ、感情のままにドアを強く叩こうと手を振り上げた。
 その時、ドアが開いて、ユキは驚いてバランスを崩してつんのめっていた。
 気がついたときにはトイラの懐にすっぽりと収まっている。
「何してんだ?」
 トイラに言われ、ユキは慌てて後ろにさがった。
「猫、猫に、猫を、えっ?」
 気が動転して自分でも何を言ってるのかわからない。トイラはじっとユキを見つめている。
「猫?」
「だから、その、勝手に餌をやらないで」
「俺はしてないが」
「えっ、でも、猫がうじゃうじゃと庭に、トイラも……」
 深く自分を見つめる緑の目をユキは見てしまい、そこから言葉が続かなくなってしまう。ただドキドキと心臓が高鳴る。
「ユキは、猫が嫌いか?」
「大好きだけど」
「どんな猫が好みだ?」
「好みって、言われても全部好きだけど、飼うなら大きな猫を飼ってみたいって小さい頃思っていた事がある。大きな体で寄り添って温めてくれて……」
 そこまでユキが言ったとき、トイラが目の前で微笑んでいた。
「どうした?」
「あっ、何でこんな話しているんだろうと思って」
 トイラの柔らかな表情を見るとユキはなぜかドキドキとしていた。恥らいが体の火照りを強くしていく。
 トイラの顔がまともにみられず、モジモジと体が勝手に恥らっていた。
「ユキ……」
 トイラが言いかけたがユキは遮った。
「いっぱいいたから、珍しくて相手してただけでしょ。わかった。でも餌だけはやらないでね」
 自分で話を早く切り上げ、ユキは向かいの自分の部屋にそそくさと入っていった。
 まだ心臓がドキドキしている。
 トイラの笑顔がユキの頭から離れない。
「何考えてるの私」
 ありえない、ありえないとユキは自分を否定した。
 気分転換に窓を開けて外を眺めれば、猫なんて全くいなかった。
 しばらく、夜空を仰ぎ瞬く星を見ていた。
 冷たい夜風が火照った体に気持ちいいと思ったその時、暗闇の中から猛スピードで何かがユキに突っ込んでくるのが目に入った。
 ユキは咄嗟に悲鳴を上げていた。


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