Brilliant Emerald

第七章

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 園内を殆ど見終わった後、人があまり来ない動物園のはずれをユキとトイラは歩いていた。
 ユキはそっとトイラの横顔を見つめる。
 トイラが気づいてユキに視線を向けた。
 その目は優しく微笑んでいる。
 もう睨んだあの怖い顔は見せることはなかった。
 睨まれていてもあの緑の目にユキは魅了されていたから、初めて出会ったときから釘付けだった。

「なんだよ、そんなに見つめて、俺の顔になんかついてるのか」
「その緑の目に魅了されるの。一度見たら忘れられないほどに。今日周りにいた人たちもそうだったね。トイラに見惚れてた。外国人だし、ハンサムだし、もてる要素たっぷりだよね」
「でもユキは、俺が黒豹の姿でも好きでいてくれるだろ」
「もちろんよ。その緑の目。これだけは人の姿のあなたでも、黒豹の姿のあなたでも、全く変わらない。私はあなたがどんな姿であっても、大好きよ」
 素直に自分の気持ちが伝えられる。ユキはどきどきと胸が高鳴っていた。
 恋する純粋なユキを見ると、トイラも気分が高揚する。
 感情が湧き出て飛び跳ねたくなり、つい黒豹の姿になった。
「えっ、トイラ、それは……」
 ユキは思わずトイラに走りより、周りから隠すように、黒豹のトイラの首に抱きついた。
「トイラ、見つかったら、あんたここの動物園行きよ。それこそジャガーと同じ場所に入れられちゃうわ。そんなの嫌」
「ほうら、よく見てごらん」
 ユキが再び見ると、トイラはもう人の姿に戻っていた。
「もう、冷や冷やさせるんだから」
「いつまで抱きついてんだ。それこそジロジロ見られるだろうが」
「いいの、これは」
 マジかで見るトイラの顔。まだ一度もキスをしていない。
 こんなにも好きなのに、近くにいるのに、どうしてキスの一つもしてくれないのだろう。
(自分から迫ってみようか)
 トイラの顔を見上げて、ユキは口を突き出してみた。
「どうした、ユキ、タコみたいな口して」
 トイラには気づいてもらえず、ユキはうなだれる。
「帰ろう、トイラ。学校が終わる前に帰らないと、誰かに見られて、学校サボったことばれちゃうかも」
「ユキ、ちょっと待って」
 トイラは園内に植えてある茂みからつやつやした小さな葉っぱを一枚取った。
 そしてそれをユキに向かって差し出した。
「何? 葉っぱ?」
「本当は俺の森にある、特定の葉っぱじゃないとダメなんだけど、今は手に入らないから、これで代用。さあ受け取って」
「えっ?」
 ユキは何のことか分からず、その葉っぱを不思議そうに手にした。
 するとトイラは突然ユキの腰に手を回して、自分の胸へとユキの体を引き寄せた。
 そしてユキの顔に近づくと、頬をひと舐めする。
 ユキはぞくっとしてしまった。
「ちょっと、トイラ、なっ、何をしてるの」
「何って、キスだけど。その葉っぱ受け取っただろ。それってキスOKのサインさ。まあいわゆる求愛の儀式ってところさ」
「トイラの世界ではこれがキス?」
「うん。愛情を持って毛づくろいする。お互いの匂い付けするんだ」
 ユキは猫を思い出して納得してしまった。でも何か違う。
「トイラ、待って。これもいいんだけど、(何言ってんだ、私は!)私はこっちのキスの方がいい」
 ユキは目を閉じて、そっとトイラの口に、自分の口を重ねた。
 今度はトイラが驚いていた。
 ふたりは見詰め合うとくすっと笑う。
 お互いの気持ちが通じ合うだけで心が満たされていた。

 楽しい思い出を作り満足した後、二人は家路に向かう。
 田舎道をふたりで手を繋いで歩いているときだった。トイラが呟いた。
「そういえば、昨日は仁とユキが手を繋いでいたよな」
「あっ、あれは手を引かれていたようなもので、繋いでたとは……」
 ユキは言い訳して、しゅんとしてしまう。
「いいんだよ、もう気にしてない。あの時は辛かったけどな」
「私だって、トイラが五十嵐さんと腕組んで歩いてるの見たら、辛かったわ」
「ああ、ごめん。ついユキに嫌われようと利用しただけだ。だが、あいつは油断がならない。ミカには気をつけろ。あの嫌がらせのメモを机に入れたのもミカだ。あいつはユキのこと嫌っている」
「えっ、嘘。五十嵐さんが…… じゃあ、あの嫌がらせは全部、五十嵐さんの仕業なの」
「嫌がらせ? 他にも何かされたのか」
「えっ、ううん、なんでもない」
 ユキは正直に言えなかった。
 言ってしまえば、トイラは我を忘れて怒り、ミカに攻撃をしかけるかもしれない。
 済んだことは忘れたかった。
「とにかく、俺がお前を守るから。安心しろ」
 トイラはユキを自分に引き寄せる。
 その強く抱きしめる力はユキを安心させ心を強くさせる。
 トイラに恋して後悔などない。例え自分の命が脅かされてようと。
 出会えなかったことを想像する方が悲しくなる思いだった。
 
 ひとり学校へ行っていたキースは、無事に一日が終わったことにほっとしていた。
 早く家に帰るべきか、遅く帰るべきか、放課後帰り支度をしながらキースは悩んでいた。
 その時、教室の戸口に仁が現れキースを呼んだ。
「ジン、ナンカ ヨウ?」
「あのさ、何かユキやトイラのために必要なものないかい? キースひとりじゃ、慣れない土地で、ふたりの病人の世話も大変だろう。手伝えることがないかなって思って」
「ええと、アリガトウ、ダイジョウブ、ダイジョウブ」
 本当の事を知れば仁は怒るだろう。キースは冷や汗をかきながら苦笑いになっていると、担任の村上先生がキースを呼んだ。
「キース、悪いんだけど、手伝って欲しいことがあるんだ。ちょっと時間あるか」
「ハイ」
 村上先生が、分厚い英語の本を取り出してキースに見せている。話はいつ終わるのかわからない。
  キースがすぐに帰れないのなら、自分が役に立つべきだ。
 寝込んで苦しんでいるユキを想像し、仁は心配でたまらなくなってくる。
 仁は踵を返し、ユキのことを思って急ぎ足になっていた。

 ユキは縁側の窓を全開させて、部屋の空気の入れ替えをしていた。
「最近、暑くなってきたよね。でも夏が来る前には梅雨があるね」
「梅雨?」
 トイラが聞き返す。
「そう雨のシーズン。日本は雨がじめじめと降り続ける時期があるの」
 空を眺めれば、時折り白い雲が流れていくが、青空が優しく広がっている。
 ふたりしてそれを眺めていると心穏やかに気持ちがほぐれていく。
 その時に見詰め合えば、その雰囲気に呑まれ、トイラはユキに顔を近づける。
 ユキが目を閉じれば、ぺろっと頬を舐められ、またぞわっとしてしまった。
 再びユキが目を開ければ、トイラは黒豹になっていた
「いつの間に姿変わってるのよ。まあ、これもいいけどね」
 ユキは猫をかわいがるようにトイラの耳元やあごの下を撫でてやった。気持ちいいのかトイラはゴロゴロと喉を鳴らしている。
 トイラも嬉しそうにじゃれて、ユキに飛びつく。
 ユキがバランスを崩して尻餅つくと、黒豹のトイラはユキに覆い被さった。
「これが人間の姿だったら、この状態はちょっとやばいかも」
「ん?」
 トイラは意味がわからず、人間の姿にとりあえず戻ってみた。
 まるで押し倒したように、ユキに覆い被さっていた。
「ちょっとキースが戻ってきたら、誤解する。やめて」
「誤解? それなら、これでどうだい。誤解も何も、真実さ」
 トイラはそのままの姿勢でユキの口にキスをした。ユキの心臓は飛び出しそうになるくらい、激しくどきどきと音を立てていた。
 その時バサッと何かが落ちる音を聞いた。二人が同時に庭を見ると、仁が顔を真っ青に驚愕して立っていた。
「仁!」
 ユキもトイラも驚いた。慌てて体制を整えれば、並んで正座になっていた。
 そして仁はそこでくしゃみをしてしまった。
「ユキ、一体これは何だよ」
 仁は何に対して驚いているのだろう。
 キスだろうか、それとも黒豹になったトイラだろうか。
「仁、一体、何を見たの?」
 ユキは恐る恐る、消え入りそうな声で聞いた。
 激しくショックを受けた仁は、動揺しきってどうしていいか分からず逃げてしまう。
 コンビニのビニール袋がその場に落ちている。中からゼリーの容器がコロンと地面に転がっていた。
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