遠星のささやき

第五章

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 そして2月10日、朝。
 ハッピバースディ、トゥ、ミー…… などと自分で浮かれて歌えるわけでもなく、朝起きて誕生日であっても親ですら何も言わない。
 普段の日と変わらない、いつもの雰囲気。
 多分、夕食時になれば、駅前のケーキ屋さんでケーキを買って出してはくれるとは思うが、特別に思いっきり祝う準備など微塵も感じられなかった。
 期待もしてないし、まず自分自身が誕生日どころでない。
 この日は三岡君が戻ってくる。
 そして私は学校が終われば会いに行くことになっている。
 トモもうっちゃんもきっと来ているだろうが、私は三岡君にどんな顔をして会えばいいのだろう。

 朝、食卓のテーブルに向かってトーストをかじっていると、父がお小遣いと言って五千円をテーブルに置いた。
 さりげなく誕生日おめでとうと小さく呟いている。
 不意をつかれてポカーンとしていると、父はにやっと笑って仕事に出かけていった。
 忘れてはなかったということだ。
 派手に祝われるよりも、こういう小さな気遣いで充分だった。
 お金を手にして、感謝はしても、この時気になるのは三岡君のこと。
 ため息をつきながらお札を見ていた。
 まるで額が少ないとでもがっかりしているみたいだった。
 全く違うことを考えていただけだが、それを見ていた弟が後ろからそのお札をすっーと取っていく。
 思わず怒って取り返したが、弟は鼻でふんと笑っただけで言葉なく、先に学校に出かけて行った。
 先週トモから電話がかかってきてからこの一週間私の行動がおかしかったのを弟は見ていたんだろう。
 弟なりに心配して様子を探るためにわざとああいうことをしたのかもしれない。
 ぼーっとしてたらいけない。
 しっかりしなければと弟に教えられた気分だった。
 それと同時に、落ち着こう。
 三岡君に会っても、普通に接して距離を保つことを考えた。
 もうこれ以上、色々悩んで苦しむのはごめんだ。
 吹っ切れるように食べかけの朝食を慌てて口に押し込み、私も学校に向かう。

 学校では常に時計を気にし、そして平常心を保とうと自分を抑えていた。
 それが却って意識している結果であって、刻々と約束の時間が迫るにつれ胸のドキドキが強くなっていくようだった。
 部活が終わった時点ではドキドキと不安で胸が痛くなる始末。
 大丈夫なのか私?
 自問自答しながら制服のまま電車に乗り、駅前のあのいつもの待ち合わせの場所に向かった。
 ただ挨拶をして、顔を見るだけって決めて、すぐ帰るつもりでいた。
 あの夏の時と比べたら寒くて息が白くなっている。
 首に巻いていたマフラーの端を握りながら私はこの上なく緊張していた。
 冬はすぐに夜がくる。
 夕方でも辺りはすっかり暗くなっていた。
 三人が車の中で待っている様子を思い浮かべて、夜の暗闇の中、建物の明かりに照らされた広場に目をやった。
 三人が待っていると思っていたのに、そこに立っている人を見て私は立ち止まってしまった。

「よお、リサ。久しぶりだ。元気してたか」
 そこには三岡君一人しかいなかった。
 久しぶりに会った三岡君はどこかやつれていたように見えた。
 仕事でずっと忙しかったに違いない。
 でも涙が出るくらい嬉しくて、押さえていた感情がこの時弾けるように飛び出してしまい、次の瞬間駆け寄っていた。
 距離を保つどころか、一気に縮めてしまった。
 あれだけ何を抑えていたのか自分でも忘れるくらい本人を目の前にすると簡単に箍(たが)が外れた。
 どれだけ三岡君のことが好きだったのか自分でも思い知らされた。
 やっぱり三岡君が大好き。
 もう自分の気持ちに素直になるしかない。
 周りの目も気にせず、私は三岡君に抱きついていた。
 そして顔を上げた。
 一生懸命笑ってるつもりだったけど、三岡君の顔がぼやけて見える。
 寒空の下、目の周りが非常に冷たくなったのを感じた。

「なんだよ、リサ。泣くことないだろう」
「だって、だって、もう忘れられたかと思った」
「俺が忘れるわけがないだろう。俺から声かけたのに」
「でも……」
「俺さ、リサのことがずっと好きなのに、その気持ちに素直に向き合えなくてさ、自分でも何をしてるんだろうってここを離れてからずっと考えていた。今日会 えて本当に嬉しいよ」
「えっ?」
 三岡君は私を包み込むように優しく抱いてくれる。
「だから、泣くなって。ずっと会えなかったけど、これからはちょくちょく俺と会ってくれるか?」
「……」
 もう驚きを飛び越えて、頭の中は真っ白になり自分の耳を疑った。
 でも三岡君の抱きしめる腕がぎゅって一瞬強くなったことで、三岡君も私のことが好きなんだって信じられた。

「トモに言われたよ、はっきりと自分の口から気持ちを言えって。あいつにお説教されるとは思わなかった。いつも俺の後ろをついてきてただけだったのに」
「トモが?」
「それから今日誕生日なんだって? 知ったのが急だったから何も用意できなくてごめん」
「ううん、この日に三岡君に会えただけでもすごいプレゼントだよ」
「そしたらこれはトモからのプレゼントってことになっちまうな。あいつも粋な計らいしてくれたよ。仕事でここを離れているときも、連絡してきてはいつ帰っ てくるんだいつ帰ってくるんだってそればっかり言うんだぜ。早くリサに知らせてやりたいからだって」
「トモが? どうしてそこまでするの」
「それがあいつのいいところなんだ。あいつお人よしで、自分は不器用だからせめて他の人には幸せになって欲しいってそう考える奴なんだ。自分のことを犠牲 にしてまで突っ走る奴さ」
「三岡君はトモのことよくわかってるんだ」
「ああ、わかってるから、あいつの言うことを素直に聞いた。俺、やっとリサと向き合えるよ。今まで中途半端なことしてごめんな。これからはリサのことだけ 考えるから」
「三岡君……」
 涙が止まらない。
 こういうのをうれし泣きっていうんだろうか。
 こんなにも心が満たされたのはこの時が初めてだった。
 愛という文字が心に刻まれて温かい熱を出している感じ。
 見えないのにこの思いが三岡君と繋がっているんだってはっきりわかる感じ。
 これがお互い好きになるってことなんだ。
 私は三岡君の胸元に顔をうずめた。
 この気持ちをこの上なく味わって幸せをかみ締めていた。

 そしてまた三岡君の気持ちを確かめるかのように彼の顔を見つめた。
 三岡君が私に気持ちをぶつけてくれたことで、きっぱりと私のために彼女と別れたのは直接本人が口にしなくてもすぐに読み取れた。
 彼女とは付き合いが長かったって聞いたけど、別れるまできっと紆余曲折なことがあったに違いない。
 そういうことを持ち込まずに、私のことだけを考えてくれているのが三岡君の真剣な眼差しで判る。
 その瞳に私が映っている。
 私だけを見ている目。
 そして三岡君の顔がどんどん近づいてきた。
 あっと思ったとき、冷え切るような寒さの中で、冷たかった私の額に柔らかくて温かい三岡君の唇が優しく触れた。
 体の芯から暖まった気分だった。
 そして最高のバースディ。
 この日ばかりはトモに感謝した。

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