第四章

 8
 ◇澤田隼八の時間軸

 栗原さんの世界では僕の存在はどうなっているのだろう。
 多分、僕があの事故の犠牲者になっているような気がする。栗原さんはあの事故で中高生の学生がひとり亡くなったと言っていた。
 栗原さんが事故に遭わなかったのなら、当事バス停で待っていた中高生と言えば、僕しかいなかった。あとは子供連れの母親や年寄り、僕よりも大人か子供がバスを待っていた。
 バスに乗らない選択をして遠ざかる栗原さんを僕は追いかけて移動したのかもしれない。その時、どこに自分が位置していたかで生死を分けたような気がする。
 あの事故がもし起こらなかったら、僕は栗原さんを追いかけて声をかけていたのだろうか。
 過去の事はどうしようもないけど、もし事故が起こらなかった世界線があるのなら、そこで僕たちは青春を謳歌していて欲しいと願う。
 また僕が強く願えば、そんな世界も存在しうるかもしれない。僕は晴れた青空を仰いでふと笑った。


 ◇栗原智世の時間軸

 激しく息をしながら、スマホを取り出してあの時の事故を検索する。この町の名前、バス停、事故とキーワードを入れるだけで、すぐに引っかかった。
『バス停に乗用車突っ込み一人死亡、二人けが』
 その見出しのリンクを息を整えてクリックした。
 徐々にスクロールした時、見たくないものが目に飛び込んだ。
『死亡したのは中学三年生、澤田隼八さん(15)。搬送先の病院で死亡が確認された』
 このニュースは当事私も近くにいたからとてもショックを受けた。そうだった、学生がひとり亡くなったことは覚えていた。事故を起こしたのは七十を過ぎた高齢者で、その後テレビでは高齢者の危険運転が暫く話題になっていた。
 澤田君の居る世界では、私はバスに乗る事を選んだために、私が犠牲者となって澤田君は足を怪我した。あの時の自分の選択が分岐点となって、ふたつの世界に分かれてしまった。
 そんなことって。
 急激に走った後の足の疲れが、ショックと共に今になって現れて私はがくっと力が抜けてしまう。よたついたとき、後ろから声を掛けられた。
「あの、大丈夫ですか。気分でも悪いんですか?」
 急いで私に駆け寄って、私の体を支えてくれた。買い物袋をさげているところをみると、近くのスーパーから戻ってきたところに違いない。
「すみません。ちょっと躓いただけで」
 顔をあげれば、女性が心配そうに覗き込んだ。その表情にハッとしてしまう。
「でも顔色が悪いわよ」
「私、その」
 その女性の顔を見ると涙がじんわりと目に集まってくる。
「どうしたの。やっぱり具合が悪いの?」
 このまま放っておけないと思ったのだろう。親身になって接してくれる。
 私には分かっていた。この人は澤田君のお母さんだ。だって澤田君に雰囲気が似ているんだもん。とてもすがりたい気持ちが強くなって、支えてくれたのをいいことに私はこの人の腕を抱きしめる。
「あの、澤田君のお母さんですよね」
 突然に尋ねたから、澤田君のお母さんも驚きを隠せなかった。
「あなた、隼八の友達なの?」
 半信半疑で私に訊いた。
「はい」
 返事をするとずっと我慢していた感情があふれ出して泣き出してしまった。
 澤田君のお母さんは私を支えて歩き出す。
「うち、すぐそこなの。あがっていって」
 ひっくひっくしながら支えられるままに私はついていく。
「狭いアパートだと思っていたんだけど、ひとりだと結構十分過ぎるものね」
 ドアの前で、鍵を取り出しながら澤田君の母親は呟いた。
 ドアを開け「入って」と言われて、私はそこで怖じ気着いてしまった。
「あの、澤田君のお母さん」
「沙耶子《さやこ》でいいわよ」
 親しみを込めた笑顔。私の母と年は変わらないだろうけど、母よりも若く見えた。
「沙耶子さん、あのその」
「遠慮することないわ。こうやって時が経っても隼八の友達が訪ねてきてもらえるのが嬉しい。あの子、男子校だったから、まさか女の子の友達がいるなんて思わなかったわ。あなたの名前はなんていうの?」
「あっ、すみません、申し送れました。栗原智世といいます」
「そう、智世さんね。さあ、あがって」
 玄関に入るとそこはすぐダイニングキッチンになっていた。奥にはふたつの部屋がある2DKと呼ばれる間取りだ。
「お邪魔します」と私は家に上がった。
 綺麗に整頓された清潔感があるけど、それがとても殺風景にも見えた。最低限の必要なものしかないのだろう。
 やかんに水を入れながら、沙耶子さんは言った。
「どうぞ奥に入って。隼八に会いに来てくれたんでしょ」
「失礼します」
 そういって居間に使われている部屋に入っていくと、そこには白い布に包まれた四角い箱と、とても素敵に笑っている澤田君の写真が台の上に置かれているのがすぐに目に飛び込んだ。
 私の知っている澤田君の顔よりも写真は少し幼い気がした。
 やかんに火をかけた後、沙耶子さんも居間に入ってきた。
「未だにずっと手元に置いているの」
 沙耶子さんはお線香を取りだしたので、私は遺骨の前に正座した。火をつけたあと炎が収まると煙がでるそれを私に手渡してくれた。それを香炉に差し私は手を合わせた。
 そうはしても私の心中はとても複雑だ。到底目の前のものが受けいれられない。
「隼八とはどこで知り合ったの?」
 沙耶子さんは質問してくるけども、私はどう答えていいのかわからない。
「あの、その、澤田君がこんなことになってるなんて信じられなくて」
「私もそうなの。こんなに時間がたっても、いつかまた隼八がひょっこり戻ってくるんじゃないかって思うわ」
「澤田君は生きています!」
 我慢できなくて私は叫んでしまった。
 沙耶子さんはびっくりしていたけど、その意味をいいようにとってくれた。
「そうね、隼八は心の中で忘れなかったらそれは生きているってことなのかもしれないわね」
「いえ、違うんです。私、別の世界の澤田君に会いました。別の世界の澤田君は事故で片足を失ったけど、とても前向きに生きてたんです」
「……」
 沙耶子さんはどう受け止めていいのかわからず、唖然としていた。
「信じてもらえないかもしれませんが、私、昨日澤田君と会って、色々話をしたんです」
 やはり唐突すぎたのだろう。沙耶子さんは言葉を失っていた。なんだか気まずくて私はモジモジしてしまう。
 沙耶子さんは私を見て困ったように眉根が少し下がっている。それでも様子を窺いながら、決して邪険にはしなかった。
「どんな事を話したのか聞かせてもらえる?」
 できるだけ穏やかに、沙耶子さんは接しようしている。本当はこんな突拍子もないことを言われて、私を追い出したいかもしれない。でもまだ気になる部分が大きかったのか、沙耶子さんは話が聞きたいと訊く耳を持とうとしていた。
「その、えっと」
 何から話していいのか迷っている時、視線をあちこちに向けているとテレビの台の棚の中にDVDがあるのに気がついた。『ノートルダムの鐘』って背表紙に書いてある。
「あっ、あれはカジモド。澤田君の好きなDVD」
 私が呟くと、沙耶子さんの表情に変化があった。
「子供の頃、あれを何度も観てたんですよね。澤田君」
「ええ、そうだったわ」
 事故にあってからも観直したといってたけど、それはこの世界では実現されなかった。
「智世さん、そのDVDにはノートルダムの鐘って書いてあるのに、どうしてカジモドって……」
「えっ、あの、澤田君、カジモドが好きだったので、それで」
 沙耶子さんの琴線に触れたように、目が見開いて驚いていた。
「あの子もね、そのDVDをカジモドって呼んでたの。何がそんなに面白いのか、私にはわからないんだけど、あの子なりに何かを感じて観ていたの。色んなか わいい、またはかっこいいキャラクターのアニメはいっぱいあるけど、こんなに現実的に醜いキャラクターが主人公なのが面白かったみたい。それでいて主人公 は純粋だから、応援したくなったのかもしれない」
「私が出会った澤田君は、事故で右足を膝の部分まで失ってしまって、義足をつけてました」
 私は沙耶子さんの様子を窺った。まだ困惑している。
「自分の姿をカジモドに例えて、足を失ってしまったけど一生懸命生きたいって、カジモドのようになりたいって、なんでも前向きに捉えてました。どんな困難もチャンスだって、絶対にめげないんです」
 沙耶子さんは正座をしながらぐっと体に力を入れた。震えるように、黙って話を聞いていた。
「私たち、不思議な空間に閉じ込められたんです。澤田君がいうには、パラレルワールドって言ってました。決して出会うことのない世界の私たちが出会ってしまった。澤田君の世界では私が事故に遭って死んでいたそうです」
 沙耶子さんが「はっ」と息を飲んだ。
「澤田君は私のことずっと前から知っていて、その……」
 ここまで言った時、沙耶子さんの気持ちが和らぐのを感じられた。
「あなたが、隼八の初恋の女の子なのね」
「えっ?」
 私は、ドキッとして顔を上げた。沙耶子さんは泣きそうになりながらも、笑みを浮かべている。
「ええ、隼八が亡くなったとき、友達の哲君が私に教えてくれたの。猫を通じて好きになった女の子がいる。ずっと話したいと思っていたけどなかなかそれができなくて、それで哲君が隼八を手助けしていたって」
「哲君……、あっ、澤田君の親友だ」
「信じがたい話だけれど、隼八が本当に別の世界で生きているのなら、私は嬉しいわ」
 どこまで私の話が本当だと思ったのかはわからないけど、少なくとも私に出会えた事は喜んでくれているのがわかる。
 沙耶子さんは私の手を取り「ありがとう」と言って、目じりから涙を一筋流していた。
「それと、あの、アルティメットおにぎり」
「あっ、それは」
「澤田君が子供の頃、ほうれん草が嫌いで、それを沙耶子さんが工夫しておにぎりに入れたんですよね。ほうれん草、梅干、ゴマ、粉チーズ。特に梅干は、はちみつ梅がおいしいって。そのおにぎりが一番大好きな食べ物だって。そしてお母さんの作る料理はとても美味しいって」
 沙耶子さんの目からぽたぽたと大粒の涙がこぼれていく。
「そのおにぎりの作り方教えて下さい。分量はどれくらい入れれば、澤田君の好きな味になるんですか?」
 沙耶子さんは気持ちが高ぶってとうとう泣いてしまった。今までもたくさんたくさん泣いてきただろうけど、その泣き方は悲しいというよりも、嬉しくて泣いているように見えた。
「ええ、いいわよ。だったら、今から一緒に作りましょう」
 台所ではやかんから沸騰した蒸気が勢いよく立っていた。そんな事はもうどうでもいいかのように、私たちは澤田君の写真を一緒に見つめた。
 沙耶子さんからエプロンを借りて手を洗った後、私たちは一緒に台所に立った。
「おにぎりだから、そんなに難しくないんだけどね」
 沙耶子さんはカップでお米を計り、それをボールにいれた。
「えっと、お米はまず二カップですね」
 それを見て私は確認する。
「まずは、作りやすい分量ね」
 沙耶子さんはそういって、手早くお米を研いでいた。それを炊飯器に入れ、暫く浸水させた。
「次はほうれん草をゆでます」
 予め鍋に水を入れ火にかけていたものがぐらぐらと湧き上がっていた。塩を入れて洗ったほうれん草を鍋に放りこむ。
「大体どれくらいゆでるんですか?」
「一分程度でいいのよ」
 沙耶子さんの手は白くて、指先が細く綺麗な手だった。澤田君がお母さんの料理が美味しいって言う意味が、その手を見ているだけで伝わってくる。
 ほうれん草は鮮やかな緑色をして茹で上がり、それを冷水につけた。そして白い手はほうれん草をぎゅっと搾る。絞った後はまな板の上に置いた。今度はそれを細かく切っていく。途中まで切ったあと、手を止めた。
「智世さんも切ってみる?」
 何もしないで退屈していると思ったのかもしれない。
「はい」
 沙耶子さんのようにスームズに手元が動かないけど、ゆっくりと切っていく。沙耶子さんはとても温かく私を見守っていてくれた。
 もう少し、お米に水を吸わせたかったけど、時間の関係で、炊飯器のスイッチを入れた。軽やかなメロディが鳴っていた。
 出来るだけ細かくといわれたので、ほうれん草のみじん切りに奮闘していると、沙耶子さんは冷蔵庫からタッパーを出した。蓋を開けると梅干が沢山入っていて、口の中が酸っぱく感じた。
 一粒が大きくて、果肉がとてもやわらかそうだ。優しい杏色をしていて、これははちみつ梅に違いない。
「梅干はいくつ使うんですか?」
「そうね、この大きさだと三、四個くらいかがいいかな。梅の果肉次第ね。ペースト状にして大体大さじ二杯くらいあればいいの。隼八は沢山入れた方が美味しいっていってたわ」
 細かく切ったほうれん草、梅干のペースト、粉チーズ、最後に胡麻を用意した。
 ご飯が炊き上がるまでまだ時間があった。その間、沙耶子さんとテーブルについてお茶を飲んで話をした。
 沙耶子さんが不思議な空間での澤田君と私の話を聞きたがったので、最初からどういう経緯でそれが起こったのか話した。
 沙耶子さんはまだ半信半疑だったけど、澤田君の事を話したとき、納得いくものが多々あって、時々涙ぐみながらとても興味深く聞いていた。
「また隼八に会えるときがあるのかしら」
 沙耶子さんも会いたいに違いない。会えば私の話が本当だったと信じてもらえるはずだ。でも私にはわからない。私だってまた会いたし、できることなら七夕 のように一年に一回でもあえる機会があればいいのにとも思う。でも私の中ではすでにあのようなことが起こるにはかなり難しいと思っていた。
 私が返事に困っていると沙耶子さんも察したみたいだ。
 丁度その時、ご飯が炊き上がった知らせの音楽がなった。
「あっ、焚けたわ。この熱々をのがしちゃだめなのよ」
 沙耶子さんはさっと立ち上がり、炊飯器の蓋をあける。熱々の水蒸気がもわっと立ち上がった。
 しゃもじで炊き立てのご飯を軽くかき混ぜてから、布巾をつかって炊飯器からお釜を取り出した。
「智世さん、そこにある寿司桶をテーブルに置いて」
「はい」
 手巻き寿司で使う小さな桶だった。
 沙耶子さんは寿司桶にお釜をひっくり返す。
「さあ、熱いうちに材料を入れるわよ」
 楽しそうに微笑む。
 その中に刻んだほうれん草、ペースト状の梅干、大さじ二杯ずつの粉チーズと胡麻を入れた。それを素早くかき混ぜる。
 ほうれん草の緑と梅干の赤味がコントラストに綺麗だ。そこに粉チーズが熱さに溶けて糸を引き出した。胡麻は時々キラキラときらめくように顔を覗かせる。とても賑やかにそれらは混ざっていった。
 そういえばまだお昼を食べてなかった。お腹が空いたのを思い出すようにグーッと鳴り響いた。
 沙耶子さんはクスッと笑う。まだ炊き立てで熱々なのに、手に水をつけて、おにぎりを握り出した。
 手のひらが赤くなりながらご飯を転がして三角に握っていく。握り終わるとすぐに私の目の前に差し出した。
「いいんですか?」
「もちろんよ。お腹空いているんでしょ」
「ありがとうございます」
 私はそのおにぎりを手にした。
 澤田君の大好きなアルティメットおにぎり。澤田君はどんな顔をして食べたのだろう。私は澤田君を思い浮かべながらがぶっと勢いよく噛んだ。
 はちみつ梅の甘酸っぱさと、チーズが混ざり合うハーモニーは酸っぱさの中にコクがあるうまみを感じる。そこにプチプチとした胡麻の触感。ほうれん草は梅とチーズの塩気と混ざり合って、癖のない葉っぱにとても味がよく絡んでいた。
「うわ、おいしい」
「そう、よかった」
 沙耶子さんは次々におにぎりを握っていく。そのひとつを小さなお皿に入れて、澤田君の前にもお供えした。
 私も、澤田君の前に座って、畏まって一緒に食べた。
「美味しいね、澤田君」
 じんわりと目頭が熱くなりながら、しっかりと味わって咀嚼した。
inserted by FC2 system