第九章
8
将之の番になって歌いだすと、意外と声に安定感が出て上手かった。ステージの上に立っても様になっている。
ケムヨもこれには素直に感心した。
この日の将之はラフな服装でぱっと見ればまだ学生のような若さが漂っているようにも見える。
普段スーツを着ている姿と比べて違った表情を見せられた気分だった。
向かいから身を乗り出して修二がケムヨに声を掛ける。
「将之も結構歌上手いんですよ。イベントの仕事でもクライアントからリクエスト受けたりしてよく歌わされるんです。人前で歌うことに慣れてましてね。また
見掛けもいいでしょ。だからいつもモテるんですよ。でも自分から追いかけるような女性はケムヨさんが初めてかもしれません」
修二は意味ありげにニコッとする。側で聞き耳を立てていた夏生もなるほどと言いたげに首を縦に振っていた。
「はぁ……」
ケムヨは答えに困り適当に相槌を打ったが、その後歌ってる将之を見れば、あどけない顔つきでケムヨに微笑んでいた。
その顔も悪くはない。
急に親しみを感じるようでケムヨの肩の力が抜けていった。
それが不思議で、構えていた感情が一気に抜けていき、気を遣わなくてもいいと勝手に判断してしまうほど、全ての事が水に流せる気分になっていく。
将之に乗せられるように甘えていた自分。感情をぶつけられてキスされた自分。
あの時受け入れられなかった気持ちがあのあどけない微笑みで一瞬にして消え去っていく。
なぜだろうとケムヨは将之の表情が微妙にどこか違うものに見えて仕方がなかった。
将之が歌い終わると修二が「それじゃ俺も歌います」と立ち上がった。
イントロが流れると、それはケムヨも知っている歌だった。
その音楽が流れるとケムヨもなんだか急に血が騒いで元気がでてくる。
「修ちゃん、またその曲か」
「これ、知ってますよ。ケムヨちゃんの好きな曲でもあるよね」
夏生が振るとケムヨはドキッとした。
「へえ、ケムヨも好きなんだ。このアニメの曲」
将之も当然なんの曲か知っていた。
「それ、ケムヨちゃんの好きなアニメだもんね」
「夏生!」
思わずケムヨは叫んでしまう。
その時修二は力強く歌いだした。
ケムヨは何事もなく聴いてる振りしてたが、どこかそういう趣味を持っていることを将之の前では隠そうとしていた。
「かっこいいよなこのアニメ。修ちゃんの影響で観てたから俺も結構好きだぜ」
「えっ?」
「あのさ、別に隠す必要ないと思うけど。オタクってそんなに恥ずかしいことじゃないぜ。うちにはあの兄貴がいるだろ。俺はそういうの理解してるというのか、結構好きな方なんだ」
そう言えば、将之に連れて行かれたイベントで、修二が同じように言ってたことを思い出した。
「歌えばいいじゃん、アニメの曲。なんなら一緒に歌おうか」
将之は本を目の前に持ち出して、自分の好きなアニメの曲を探し出した。
「これなんかどう? 結構マイナーかもしれないけどケムヨはこれ知ってる?」
指をさされたところを見れば、その題名が飛び込むようにぴったりと自分の認識と合う。そしてもろケムヨの好みだった。
「うん、知ってる……」
「じゃあ、入れるぜ」
将之がリモコンを持って入力する間、ケムヨはじっと見つめていると益々ふわふわと不思議感覚に包まれていく。
「ねぇ、将之、なんかさ、なんていうんだろう、その……」
ケムヨは上手く口から説明できなかった。
ただどこか前日までの将之と違う感じに思えてならない。
「ん? なんだよ」
いつになく将之の笑顔が柔らかく、微笑んだ瞳からとても深い感情が込められた温かみが感じられた。
そんな瞳を見せ付けられてケムヨは何も言えないでいる。
「なあ、ケムヨ。俺さ、随分無理をしていたかもしれない。だけど本当はとても心の弱い人間なんだ。もう虚勢を張るのはやめるよ。だけど少し時間が欲しい。だから翔さんと寄りを戻すなんてすぐには言わないで欲しいんだ」
ケムヨはどう答えていいのかわからなかった。
将之はにこりと微笑んで続ける。
「俺、必ずケムヨを救ってやるからな」
角が丸くなったような、外を覆っていたものがつるりんと剥けたようなそんな笑顔だった。
それはケムヨの目に焼きつく。
その時の将之は文句なくかっこいい表情だった。