レ モネードしゃぼん

Side亜藍 後編 1

「相変わらず、犬嫌いだね」
 やはりそう来たかと、奈美はまたこの日も同じ事を言った。
 もうこれで何度目だろう。
 いつも俺が犬を嫌っていることから話を始める。
 だから俺はその理由を正直に言わないといけないようになる。
「ああ、肉を食いちぎられるほど噛まれたら誰だって嫌うはずさ」
 確かに犬には肉を食いちぎられるほど噛まれたが、俺は生きてるし、足だってちゃんと二本ある。
 犬が嫌いになった事実だけ根強く残ってしまっただけなのだ。
 犬が嫌いな人間はきっと他にも沢山居るだろうし、犬だけじゃなく猫嫌いや鳥嫌いも世の中には一杯いる。
 俺もそのうちの一人に過ぎないだけであるのに、奈美はその原因を作った自分を未だに責めている。
 奈美が怯えきった凶暴の犬に餌を与えようとして、飛び掛ってきたのを俺が阻止しようとその辺にあった細い木の枝で犬を刺激したのが発端だった。
 俺としては、奈美が犬に噛まれなくて良かったと思ってるし、本気であの時はなんとかしたいと子供心ながらに勇敢な態度に出たと褒めて欲しいくらいの気分 でいる。
 それなのに俺の傷のことが頭から離れないらしい。
 ふくらはぎはちょっと傷が残ったけど、ズボンを穿けば隠れるし、見えても男だから傷の一つや二つ別に気にならない。
 北斗の拳のケンシロウなんか胸に七つの傷があるし、またそれがかっこいいとさえ思える。
 男にとって傷なんて勲章のようなもの。
 何度奈美にそう言っても、奈美はあの時の恐怖心がそのまま俺の傷で蘇るみたいでいつまでも忘れてくれない。
 俺はそんなことよりも、俺の側で泣きじゃくってたときに言った言葉のことを思い出して欲しいと願ってしまう。
 あの時の言葉がどれだけ俺は嬉しかったことだろう。
『亜藍、亜藍、大好き。いつか亜藍のお嫁さんになるから。だから亜藍、死んじゃいや!』
 子供だったけどあんな風に必死に叫ばれたら、ぐっときたもんだった。
 俺もここでこの事を伝えればいいものを、意識しすぎて言えず仕舞い。
 奈美に思い出して貰いたい癖に、結局はうやむやに誤魔化してしまった。
 そうしているうちに、雲行きがまた怪しくなりだして、奈美がイライラしてきた様子だった。
 はっきり言わない俺が悪いのは百も承知だ。
 俺は自分ではっきりと物事を決められない優柔不断なところがある。
 つい相手の出方を気にするがあまり、先に相手がどう思うか確かめないと自ら意見をはっきりといえない性格なのである。
 傷つくのを恐れているというのか、相手と違うことを考えて否定されたり、間違ったことを言って恥ずかしい思いをするのを極力避けたいと保守的になってし まう。
 なんというのか、ここが気が弱くヘタレということだ。
 奈美の前では特にそうなりやすくて、何でもハキハキと行動する奈美に頼りがちになっては、自分はそれについていったり、そして折れたりしてしまう。
 奈美もそれを分かっているのに、意地っ張りで素直にならないから肝心な部分が抜けやすくなる。
 お互い分かっているつもりでも、大切なことは言葉にして表さないといつまでも中途半端なままでいてしまう。
 最高のコンビでありながら、お互いの考えだけでは埋められない空洞が時々出没する。
 そこを埋めるには、俺ははっきりと言わなければならないし、奈美は素直にならないといけなかった。
「ねぇ、さっきもなんか言いたいことあったのに言わずにいたけど、もっとはっきりと言ってよ。怒ってるんなら怒ってるって言ってくれなきゃわかんないじゃ ない。亜藍はいつも 我慢して最後は折れてしまって溜め込む体質なんだから」
「別に怒ってはないけど、俺が折れるってことは分かってるんじゃないか。それなら奈美ももっと素直になれよ」
「何に素直になるのよ」
「全てにだよ」
「だから、私に分かるように言ってくれないとわかんないって言ってるでしょ。亜藍だって大事なところ飛ばして私に理解しろってそれおかしいよ。はっきり言 わないところは昔っからそうだったよね」
 いつの間にか言い争いになってきた。
 俺はこの夏のことを考えてしまう。
 俺は奈美の前から消えてしまうのだ。その時奈美はどうするのだろう。
 だから”もし”を使ってまず俺がいなくなったらどうするのか確認してしまった。
 またその言い方が奈美の反感を買ってしまい、奈美の機嫌が悪くなっていく。
 こんなこと回りくどく聞いていても仕方がない。
 だけど正直に話せば、その瞬間から俺はもう奈美の前では日本人ではなくなってしまう。
 今まで俺が拘って築き上げていたものがその一言で壊れてしまうのだ。
 それを失うのを恐れ、そして自分が大切にしてきたものが崩れ去っていく悲しい気持ちがどっとあふれ出してくる。
 そして引っ越すということがどういうことなのか、このとき俺の脳裏に鮮明に浮び上がった。
 それは奈美との別れという残酷な現実だった。
 それでも俺は言わなくてはならない。隠してもいずれ居なくなる事実はどうあがいても変えられない。
 奈美の頬が膨れている状態を見ると、俺は全てを告白しなければならないときが来たと思い、虚しさの吐息を吐いた。
 次の瞬間、俺は咄嗟に眼鏡の位置を整えるように指で押さえ込んだ。
 正直に言う覚悟を決めた合図でもあり、そして最も言い難いことを言わなければならない俺の勢い付けだった。
「それじゃ、はっきり言う。俺がこの夏引っ越すんだよ」
「えっ? 亜藍、引っ越しちゃうの? 嘘だ。だっておばさんも樹里ちゃんも何も言ってなかったよ」
「だから俺だけ、引っ越すんだ」
「なんで亜藍だけが引越しなの? それにどこへ行くのよ」
「フランス」
 奈美は俺の言ったことを聞いて最初は冗談だと思って笑っていた。
 いきなりフランスという言葉を聞けば、なぜそうなるんだと突拍子もない話が信じられなかったと思う。
 だけど事実だけに俺は笑うどころか悲しみしか湧いてこなかった。
 真面目な表情で悲しげな瞳を向けて自分の国籍を告げたとき、奈美は俺の言葉を信じるしかなかった。
 あんなに笑っていたのに、ぴたりと息まで止まったように驚いていた奈美の顔を見るのは俺も辛かった。
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