第一章 そのままの道
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「木暮成実さんですね。ようこそ、迷いの館へ」
目の前に現れた奇妙な男。私の名前を呼び、シルクハットを頭に被り、タキシードを着て洗練されたお辞儀をしている。
その男の足元には茶色い犬がかしこまってちょこんと座っていた。
挨拶のつもりなのか犬も私と目が合うと「ワン」と吼えた。
私は目をぱちくりとして棒立ちになっていた。
――『迷いの館』? 何それ?
私が疑問符を頭に浮かべていると、男がゆっくりと顔を上げた。
青白い肌と鋭い猫のような眼光に私はドキリと驚いて唾を思わず飲み込んだ。なんだか怖い。
背はすらっと高く一見かっこよく見えるようだが、耳が尖ってどこか人間離れした風貌。
見れば見るほど不気味に見えていく。
私が怯んで後ずさりしたその時、その男は体裁を繕おうとして白い歯を見せニタリと笑った。
やっぱり何度見ても怖い。
私の怯えている様子が伝わったのだろう。
男は眉根を下げて同情をそそろうと少し寂しげな表情をする。
その横で犬は尻尾を振っていた。そんな事をしても私の緊張は一向に解けない。
なぜ私は今、この男と犬の目の前にいるのだろう。
逃げようと目だけを慎重に動かして出口を探し、私はゆっくりと片足を後ろに動かした。
「待ちなさい!」
突然叫ばれたきつい命令口調。
私の身は固く縮こまり、叱られた子供のように思わず目を閉じた。
数秒経ってから恐る恐る目を開ければ、男も犬も目の前から消えていた。
思わずパッと目が見開く。
慌てて辺りを見回してもどこにもいない。
先ほどは暗いどこかの部屋にいたように思ったが、気がつけば学校の帰り道。
そうだった。
学校が終わって私は家に帰る途中だった。
歩道を歩いている私の側を車がすっと走っていく。
自転車も同じようにその後を続いてゆっくり走っていった。
私と同じ制服を着た生徒たちがまばらに散らばって歩いている。
小さな町の住宅街。いつも見るなんらかわりない光景だった。
寒さが駆け足に迫ってくる秋から冬にかけての季節の変わり目。陽が落ちるのも早くなり、風が吹けばひんやりとした 空気に身震いする。
傾きかけた赤い太陽が自分の影を長くしていた。
その黒い影が先ほどのタキシード姿の男を連想させた。
でも記憶はすでにおぼろげだ。
一体何が起こったのだろう。
ここ最近疲れてあまり気分が優れなかったことを考えると、たまたまどこかで見た何かに影響され、ぼんやりとして知らずと幻想を抱いていたのかもしれない。
私は忘れようと深く考えないでいたけど、また頭の中で声を聞いたように思えた。
「まずはそのままでどうぞ。ではまたあとで……」
「ワン」
意味のわからない言葉と犬の鳴き声。
頭がおかしくなってしまったように思え、私はぶんぶんと頭を何度も横に振って妄想を蹴散らす。
ありえない、ありえない。
その時、後ろから学校帰りの生徒たちが立ち止まっている私を抜かして通り過ぎていった。
馬鹿げた行動をしている私の様子に、通り過ぎたうちのひとりが振り返って私をじっと見る。
隣のクラスの小渕司だ。
サッカーが上手くてそこそこかっこいい部類の人気者。
憧れている女子は結構いると聞く。でも私は彼にちょっと敵意を持っている。
別にどうこうされたということもなく、一度も話したことはないのだけど、目が合うとなんとなくそんな気持ちになってしまう。
その気持ちが何であるか、後ではっきりとした。
私はいつもピリピリしている。
少し苛立っているからつい感情任せに意味もなく不機嫌だ。
小渕司と目が合ったけど、そういう理由で私はぎこちなくプイと視線を逸らした。
小渕司は別にどうこうすることもなく、友達に囲まれて何事もなく去っていった。
私のことなんてその辺に生えている雑草くらいにしか思ってないことだろう。
ちょうど足元にタンポポが生えていた。
私はそれを見つめる。雑草ながらあどけなく黄色い花が咲くだけまだタンポポの方がかわい気があるというものだ。 わけもなくプライドを傷つけられたようになんだかそれが悔しい。
ついキッと睨む。苛立っているときはむやみに感情の捌け口を何にでも向けてしまう。
私って最低。
分かっていてもくすぶった不満に自分を見失う。
タンポポにまで八つ当たりしているその時、笑い声が突然不快に耳に入ってきた。
顔を上げて前を見れば小渕司は友達とわいわい楽しそうに語らっていた。
それが無償に私を惨めにさせた。
私の感情を読まれているように思え、その場にいるのが恥ずかしく体が縮こまって怯んでしまう。
何か自分の悪口を言われたような被害妄想にとらわれた。
どうせ私はかわい気のない女だ。
心に余裕がなくてすぐに苛立つ。
小渕司には到底私の気持ちなんて分からないだろう。
友達に慕われ、女の子にも持てて人気者。
悩み事がなさそうに好きなサッカーに力を入れて今年地区大会で優勝へと導いた。
夏の全国大会は大敗だったけど、県内の中学の中ではトップレベルの選手に違いない。
それだけでみんなからすごいと思われている。
でも私は認めない。認めたくないのだ。
そう、私は小渕司に嫉妬していた。
高校受験を控えた中学三年の二学期のこの頃から特に――。
私がここ最近ピリピリし出したのは、受験が一番の理由。
中学三年の二学期は進路をはっきりと決めないといけない。
年が明けたらすぐにも私立高校の入試が始まる。
私には自分の行きたい高校がある。県立飛翔国際高校。
ずっとそこを目指して頑張ってきたつもりだ。
その高校は自分の住んでいる町にあり、家からも歩いて通えるくらい近い。
私の好きな英語に力を入れていて外国人の先生や交換留学生も来ている。
時々、その高校の制服を着た明らかに日本人に見えないどこかの国の生徒と街ですれ違うときがある。
外国人がいるだけで国際感に溢れているように見えてその高校にずっと憧れを抱いていた。
家からも近いから通学にも便利で、名前もかっこよくずっと前から高校はそこと決めていた。
だけど問題があった。偏差値が少し高い。
ぼんやりと普通に中学生活を過ごしていたら容易に入れない学校だった。
まだ救いだったのは手が出ないほど高いレベルではなかったこと。
一生懸命頑張れば自分のようなレベルでもいけるかもしれないという望みが少なからずあった。
だから中学に入ってからは真面目に頑張ってきた。
その高校に入るためにできることはやってきたというくらい勉強をしたつもりだ。
友達にも飛翔国際高校に入りたいと口癖のように言っていたように思う。
だから私の周りの友達はほとんどその事を知っていた。
ある日、宿題で出された英語の問題が難しく、クラスでちょっとした話題になっていたことがあった。
ほとんどの生徒は自力でできないので、友達に助けを求めていた。
私のグループでもわからない人がほとんどだった。でも私はたまたまその問題を解く事ができて、少し得意になっていた。
英語は私の得意科目でもある。
映画が好きで、洋画を特に好んで観ている。
耳についた単語は調べて単語帳に書き留める。
新しい単語を知ると世界が開けてくるみたいに楽しくて、普段から英単語だけは毎日見る癖がついている。
熟語や英語のことわざ、またはスラングまで興味を持って覚えていた。それが功を奏した。
朝、次々と登校してくる生徒でざわつく教室。
担任が教室に入ってくるまでグループで固まっていると、宿題の答えがわからないと蔵田順奈が言い出した。
「なぜここで人の靴をはかないといけないの?」
日本語に訳せばそういう感じの英語だった。
順奈の声は大きく、態度もそれに比例している。
はっきりと思った事を言うから、きつい性格に感じる。
機嫌が顔に出やすい私とは合わないけども、大雑把に集まった適当に仲良くするグループなので私たちはいっしょに居た。
普段は別に仲がいいというわけでもないし、わざわざ喧嘩するような間柄でもない。
ただ適当に話をするだけの関係だ。
でも私はきつい言い方をする順奈を心なしかよく思っていなかった。
順奈は宿題の問題がわからなくて悔しかったのだろう。
彼女は優等生タイプのガリ勉だ。私よりも成績がいい。
その順奈がこんなのまだ習ってないやら文句を言いながら、グループ内で一番頭がいい西浦美比呂に訊いていた。
美比呂はお淑やかで優しいので、いつも人の話を聞くタイプででしゃばらない。
態度のでかいおしゃべりな順奈は話をいつも聞いてくれる優しい美比呂が気に入っていた。
私には上から目線なくせに、美比呂と話すときは甘ったるい声を出して、明らかに接し方が違った。
美比呂はそれだけ誰からも好かれ、人に安らぎを与える能力を備え持っていた。
私も彼女を前にすると自然と気持ちが和らぐのが不思議だった。
その美比呂が笑って順奈の質問に答えていた。
「それ、私もわからなかった」
あの美比呂でもわからない問題。
私はその時、胸がドキドキと高鳴っていた。
「私、その問題わかったよ」
つい自慢したくて口をついていた。
みんなの視線を浴び、ちょっと有頂天になってしまった私は、先生にでもなった気分で答えを説明する。
美比呂が「ナルちゃん、すごーい」と褒め称えてくれた。
成実だからナルちゃん。それが私のニックネーム。
でも美比呂に呼ばれる時だけはちょっと自分がかわいく感じてしまう。
美比呂に自分の名前をそう呼ばれるのが私は好きだった。
美比呂に認められた気になって、益々私は図にのって鼻の穴が膨らむ勢いでえらそうな態度をちょっと取ってしまった。
抑えようとしてもついつい本音が出てしまう高揚した感情。
私はその時見るからに得意気に笑っていた。
でも順奈の言葉で一瞬にして消えた。
「さっすが! 飛翔国際高校第一志望」
言葉は褒めているようでも、美比呂とは違った冷めた声。
私に負けた悔しさが伝わってくる。
わざとらしく嫌味っぽく言う態度が馬鹿にされているように思えた。
――たった一つの問題ができただけで何様だろう。
そんな言葉が隠れているように思えた。
私も少し調子に乗りすぎたかもしれない。
優越感に浸ってしまった事がこの時になって恥ずかしくなってくる。
順奈はそれを私に知らしめたのだ。
それだけ私は順奈から見れば下位に位置づけられていた。
順奈にしてみれば、私のようなものが簡単に偏差値の高い学校に受かるとは思っていない。
実際私は勉強ができるようなタイプではない。
ただ点数を取ろうとして闇雲に暗記しているだけにすぎない。
それにも限界があるから、正直自分の行きたい高校に入れるかなんて厳しい。
順奈の潜在意識にもその偏見があるから、私が簡単に難しい問題を解いたとは認めたくなさそうだった。
実際自分もたまたま知っていただけでまぐれだったと思うから、順奈に言われて虚しさがこの上なくこみ上げた。
はっきり言って順奈には腹が立つけども、私も身の程知らずだ。
それに私も順奈のことは強く責められる立場じゃない。
私も同じクラスで自分よりも下に見ている生徒がいるからだ。
どうしても自分を基準にして友達を階級付けしてしまう。
この子にだけは負けたくない。そういう人はクラスに必ずひとりはいる。
順奈にとったら、それが私なのだ。
そして私も同じようにクラスメートの棚元明穂がそれにあたる。
幸いグループは違うので棚元明穂と一緒にいることはほとんどない。
たまたま棚元明穂と隣の席になったとき、一度も話したことないのに馴れ馴れしい態度で接してきたのが気に食わなかった。
私は『棚元さん』と呼んだのに、向こうはいきなり『ナル』とニックネームで呼び捨てにした事が発端。
なぜそれが嫌だったのか。
私は彼女に心開いてなかったし、彼女は人と感覚がおかしく能天気でクラスでも煙たがられているところがあった。
成績もあまり芳しくなさそうで、私の中で彼女はすでに低い位置にいた。
だから無意識に見下してしまっていた。先入観というものだ。
そういう歪んだ目で見ると彼女を理解しようと、大目に見る事ができなくなる。
一度嫌なことが気になると、その後は粗ばかりが見え、その人の人格を知らずと否定までしてしまう。
性格や考え方が人格をつくるように、それは知らずと体から波長となって人に伝わっていく。
どうしても合わない波長というものがあるから、それを感じ取ったとき相性は悪くなりがちだ。
人間って本能でそれを嗅ぎ取っていると思う。
なんかあの人と合わない――。
そう思った時、そこには自分が受け入れられないものが潜んでいるから素直に心が開けないのだ。
特に本音と建前がうまく切り替わらない我が強く出るこの多感な時期、自分の正直な気持ちがつるりと口をついて出てしまう。
そのせいで私もまた気難しい人間だと思われている。
他人が何を思おうが、人は人、私は私でいい。
私は人の事なんてどうでもよかった。
順奈が私を見下していようと、私はぐっと堪えて自分の思うがままに進む。
幸い虐められることはなかったので、我慢くらいなんの問題もなかった。
私はどうしても飛翔国際高校に受かりたい。
意気込みだけは強いから、周りのみんなは好きにしろと放っておいてくれた。
だけど二学期も半ばを過ぎた頃、担任と話し合う進路相談がやってくると、私はことごとくその希望を打ち砕かれてしまった。
「第一志望は飛翔国際高校か。ちょっと危ういな」
私と母を目の前にして、担任の井野田先生は渋った声を出した。
腕を組んで息を吐いて後ろの椅子の背に身をもたせかけた。
歳もいって貫禄があるから、どこかのお偉いさんが気に入らないと態度で示しているようだ。
少し開いた間が私を居心地悪くさせ、私はひざに置いていた手でぎゅっとスカートを握り締めた。
隣で母は心配そうに担任を見つめている。
私たちだけしかいない教室の空気が重くなり、容赦ない現実を突きつけられ温度が下がったように思えた。
井野田先生はちらりと私の顔を見てから母の顔を見た。
先生も希望に添えられない事をいうのが心苦しいのかもしれない。
先生が口を開くまでの間、私は水の中に潜ったように空気が吸えなかった。
おもむろに机の横に積んであった書類を手にして、それを私の前に突き出し指で押さえながら先生は私の成績について話し出した。
英語と国語の成績はいいけども、数学や理科がそれに追いついてなく、そこに体育が極端に悪いから、この成績ではギリギリだとはっきり言った。
その次に、私が確実に受かる高校を勧めてくる。
飛翔国際高校より一つ下のレベル。
そこもそんなに悪くはないと世間では思われている高校だった。
栄里高校――古くから存在する伝統ある高校ではあった。
その分校舎も古く、通学にも遠くて不便なところにあった。
レベルは悪くないかもしれない。でも何だか納得いかない。
「通うのが大変そう」
思わずポロリと言ってしまった。
「そんな事よりも、今は確実に高校へ受かることの方が大事だろうが」
井野田先生に少し怒られた。
この後も進路相談を廊下で待っている親子たちがいる。
先生もすでに何人も担当して疲れて苛立っていたのだろう。
「だったら、安井高校はどうだ。通うには便利だろう」
「ヤスイ高校……」
私の頭の中では『安い高校』と変換されてしまう。あまりにも安易な名前。
発音されるとチープさを感じられずにはいられない。
その高校は最寄の駅から一駅先にあって距離的には近いかもしれない。
だけどレベルは自分から見ればかなり落ちてしまう。
益々そんな高校に行きたくなかった。
「先生、どうしても飛翔国際高校は私には無理ですか? 本番までに必死に頑張ります」
すがる思いで必死に訴えた。先生は思案している。
「英語のスピーチ大会で、当日、代表の人が病欠したからって急遽代役押し付けられたじゃないですか。受験に有利だとかいって」
なけなしの私の利点を誇張した。
でも、切羽詰っていて都合よく私がそこにいたから穴を埋めるために先生も自棄になって咄嗟にでた言葉ではあった。
先生もそれを言われると少しバツが悪くなっていた。
「木暮は英語だけは誰よりもできるから、私としても英語に力を入れている『飛翔』に行って欲しいと思う。だが、他の成績がこれではな。もし、試験でギリギ
リ合格点に達したものが何人かいたとして、学校はあと一人しか空きがなかったとしたらやはり中学の成績でふるいにかけられてしまう。そうなると不利だ」
工夫した説明のつもりなのだろう。
説得させようとそれなりの理由を言うが、先生ははなっから私がいい点数を取れないと思い込んでいる。
「先生、だから合格点以上の点数を取ればいいんでしょ」
「そりゃ、そうだが……」
「だったら私頑張ります。絶対に飛翔に受かるようにします。だから受けさせて下さい」
私の切実なる思いに井野田先生は難しい顔をしながら考え込んだ。隣で母も頭を下げて先生に頼み込む。
「合格は五分五分のところだぞ。リスクが高いけどそれでもいいのか」
「はい。頑張ります」
先生は私の意気込みに折れ、志望校を飛翔国際高校と決定した。
まだ願書を提出できると決まっただけで合格する保障は一切ない。
それなのに受験できる切符を手にしたことが嬉しくてたまらなかった。
その後、滑り止めの併願する私立高校を話し合い、それは担任の勧めるままにすぐに決まった。
その私立には行くつもりなんて全くない。
だからどこでもよかった。確実に受かるに越したことはないが、受かっても私には経済的に私立にいけない理由がある。
父が勤める会社の経営があまり思わしくなく、給料がガクッと下がったと耳にしたところだった。
少しでも家庭に負担をかけないために、授業料が高い私立は絶対に避けなければならない。
うちにはそんな余裕がない。
こうなったら背水の陣。私は絶対に飛翔国際高校へ行くんだ。
切羽詰って負けられないと一人で気持ちだけが先走るそんな時、小渕司も飛翔国際高校を受験すると知ってしまった。