第一章
9
明穂が主催したクッキー作りは大成功を収め、楽しいひと時を過ごしたと皆が賛辞を述べる。
「またみんなで集まろうね」
明穂が言うと、真鈴と理央は「来たい、来たい」と騒ぐ。
アズミも楽しかった様子で、明穂に感謝の意を述べていた。
私だけが乗り気じゃない。それを小渕司は見ていて私と目が合うとそらしていた。
最後はお礼を言って帰って行く。
家を出たときにはすっかり夕暮れ時になり、昼間の初夏を思わせた気温が下がって半袖だと肌寒い。
アズミたちをバス停まで送れば、ちょうどバスが来て三人はそれに乗り込み、窓からしきりに手を振って別れた。
特に私の隣ばかりを見ながら名残惜しく帰って行く。
そこには小渕司も一緒にいた。
三人を乗せたバスがすっかり見えなくなると、私も自転車に乗ってさっさと帰ろうとしたが、小渕司が引き止める。
「ちょっと待って」
まさか私に声を掛けてくるとは思わず、私は硬い表情になり怯えた。
あれだけ何度も睨んでおきながら、本人を面と向かってみれば臆病者のように弱くなる。
「何?」
「ちょっと話をしたいなって思って。いいかな?」
嫌ともいえず、軽く首を縦に振る。
陽が傾きかけたまどろんだ街の中。
私は自分の自転車を押しながら小渕司とゆっくり歩く。
やはり足の調子が悪そうに引きずっている。
「それで、一体何?」
普通に声を出したつもりだった。だけど不機嫌に喉から苦しく出てしまう。
「前から気になってたんだけど、木暮さんはどうして僕の事をいつも睨むの?」
やっぱりそう来たか。だからといって正直に答えられるわけがない。
「私、目つき悪いから。目が合うとそう見えるだけ」
「ううん、そんなんじゃないよ。何ていうんだろう、僕に腹を立ててるような睨み方だ」
小渕司に指摘され、私はこの上なく動揺した。図星だ。
「そんな風に思われてるんだったら謝るよ」
「ごまかさないで。それに謝って欲しいなんて思ってない。僕はただ理由が知りたいんだ。僕が気に入らない事をしたから? もしそうなら、僕の方が謝らなければならないから」
小渕司は感情を荒立てることなく落ち着いている。
普通なら気分を害して腹を立て手当たり前だ。
どこまでも彼は物腰柔らかく、下手に話してくる。でもそこがいい子ぶりっ子してるみたいにも思える。
しかし、彼には何の落ち度もないことはわかりきったことだ。
この日まで話したことなど一度もなかったのだから。彼も実際のところ本当の理由をわかっているのかもしれない。
ただ些細な仕返しになればというくらいなのだろう。
偶然友達を介して出会ってしまった私たち。
こんな事がなければ理由なんてわざわざ私に訊いてくることもなかっただろう。
自分が撒いた種が後になって自分を不利にさせていく。自業自得だ。
「小渕君は何も悪くない」
「だったらなぜ?」
「本当は分かってるんでしょ。あの合格発表の時の私を見てるんだから」
合格できずに泣いていた私。
どこにも気持ちをぶつけられなくて、小渕司を見たときに八つ当たって睨んでしまった。
「君が志望していた高校に僕が受かって、君が落ちた……ってこと?」
「そうよ。私は不合格だった。行きたかった高校に入れなかった」
「だからといって、なんで僕なんだ。同じ中学から他にも合格者がいるのに」
確かに小渕司の言う通りだ。
能力の違いで落とされたのならここまで他者に嫉妬なんてしない。
小渕司の場合、サッカーができるからというだけで合格できた事が気に入らない。
なぜそんな事がわからないのだろう。
「ごめん、嫉妬深くて。小渕君、特に目立つからつい矛先を向けてしまったの」
「そんなに飛翔に入りたかったんだ」
「当たり前でしょ。いい高校なんだから」
何を言ってるんだ今更。
「そうかな。僕はそこに入った事を後悔している」
「えっ? 私の気を和らげようと高校の価値を下げようとでもいうの?」
「違うよ。きっと木暮さんなら楽しいと思ったんじゃないかな……っていっても余計に腹立つよね。ごめん」
虚ろな瞳で笑おうとしている小渕司は泣くまいと耐えているように見える。
小渕司の複雑な感情。彼は何かに悩んでいる様子だった。
引きずった足に目が行った時、私ははっとする。
「足を怪我して、サッカーできないからそんなこと言うの?」
「どうだろうね。だけど、サッカーしなくてよくなったから、ちょっと気が楽になったかも」
自虐のつもりだろうか。
でも私はカチッとしてしまった。
「そんな、あの高校に入ったのはサッカーするためなんでしょ。なんでそんな事いうの。一生懸命頑張っても入れなかった私が余計に惨めになるじゃない」
私がサッカーについて触れると、小渕司の尻尾を踏んでしまったように、彼の目の色が見る見る変わっていく。
今まで冷静に話していたのが嘘のように突然豹変した。
「君に何がわかるっていうんだよ。これは僕の人生で君の人生じゃないんだ。人それぞれ事情というものがある。勝手に自分の中だけで決め付けるな」
ずっと抑えていた感情がこの時とばかりに爆発した。
突然声を上げられて、私はこの上なく怖くなってしまった。
穏やかそうに見えていた小渕司が怒った。
私は身が縮こまる。
「これ以上一緒にいても、私は小渕君を怒らせるだけだと思う。ただ私はあなたが羨ましかった。恵まれたあなたが」
私は自転車に跨り、さよならも告げずに小渕司を置いて去っていく。
怖くて逃げたのだ。
「あっ、木暮さん!」
後ろで私を呼ぶ声がしたが、私は振り返らなかった。
涙が流れて前が潤んでよく見えなかった。
家に着いたとき、すっかり日が落ちて辺りが暗くなりかけていた。
自転車を門の中に入れていると「ワン」と犬の吼える声が聞こえた。振り返れば、あの茶色い犬だった。
それは悲しげに私を見て首を横に傾げる。
悲しいのはこっちの方だった。
「一体どこの犬なの? あっち行ってよ」
私が手で払うと、犬はシュンとうなだれた。
それを無視して自転車を玄関の軒下に置く。
そのまま家に入ろうとしたけど、よく考えたら今は時間がたっぷりある。
保護しようと思いなおして振り返ると、犬はすでに姿を消していた。
それが今日一日をもっと虚しくしてくれた。