第三章

 8
 足を引きずって虚しさをたくさん抱えて家に帰っていく。
 辺りはすっかり暗く、時々側を通る車のヘッドライトが近づくと、僕は衝動で飛び込みたくなっていた。
 その気持ちと葛藤しているうちに家の前に来ていた。
 僕はいつも死を考えている。
 もし僕が死んだらお母さんはどう思うのだろう。
 不安定な時、安易に死を思いつく。
 いっそのこと潔く……。
 それはヤケクソと当てつけが入り混じった僕の暴走する心。
 僕はほんのちょっと肩を押されたら実行してしまいそうな位置にいつもいた。この時期は特に。
 僕はこどもの日が近づくといつもこんな気持ちが強くなる。
 そしてできることなら子供の日が過ぎるまで家に居たくない。
 ため息をつきながら玄関のドアを開け、僕は黙って上がり込む。
 僕の気配を感じたお母さんは、バタバタと側までやってきた。
「暗くなるまでどこに行っていたの。足を怪我しているのに歩き回ったら治りにくいじゃないの」
 僕は無視をして階段を上がろうとする。
「翼ちゃんに挨拶しなさい。お兄ちゃんでしょ」
 お母さんは僕が家から帰る度に弟に声を掛けろと強制する。
 お母さんはすぐそこの和室のある部屋の引き戸を引き、僕に催促する。
「ほら早くしなさい」
 そして部屋にいる翼に優しく声をかける。
「ねぇ、翼ちゃん。いつも寂しい思いをしているのにね」
 寂しい思いは僕だってしている。
 なぜ目の前の僕を見ないで、弟ばかりを見るんだ。
 僕が部屋に一歩入れば、無邪気に笑っている弟の顔が目に飛び込んできた。
 それに腹を立ててしまう。
「こんなの弟なんかじゃない」
 僕は仏壇の前に飾られている弟の写真を手にし、それを思いっきり畳に向かって叩きつけた。
 写真立ては鈍く畳に跳ね返った。

 弟が死んでちょうど五年。
 弟は写真の中でずっと小学三年生のままだ。
 あどけない、それでいて腕白ないたずらっ子の憎らしい笑顔。
 亡き弟の元気だった頃の姿。母のお気に入りの写真。
 それを僕は壊したのだ。
 そして同時に僕の心も壊れた。
 弟は髄芽種――小児の小脳にできる悪性脳腫瘍が原因でこの世を去った。
 手術して取り除けば助かる道もあったかもしれないが、主要な血管や神経に広がってすでに浸透しているためそれが困難で医者は手術を断念した。
 その代わり放射線治療で腫瘍を小さくしたが、それは一時的に収まっても、次第にまた大きくなっていく。
 放射線治療は悪影響が出てくるので受けられる回数が決まっている。
 その治療ができなくなれば、次は化学治療を予定していたが、もう手遅れだった。
 サッカーが好きだった弟。
 サッカー選手になりたくて練習していたとき、何度もこけ、僕はドジな奴として笑っていた。
 ただ歩いているときも、立っているだけのときでさえ、バタッと突然ひっくり返るのが続き、おかしいと思って病院で精密検査を受けたら髄芽種が発覚した。
 それからだ。天と地がひっくり返ったように僕たちの生活が普通じゃなくなった。
 お母さんは狂ったように弟を助けようとあらゆる事を調べ出し、腫瘍を抑えるいい薬があるのならかたっぱしから試すようになった。
 それは決して安いものではなかった。
 お父さんも弟の治療にかかる費用のためにお金を稼ごうと仕事で無理をしていた。
 そして当時小学五年生だった僕ができることは、全てを弟に譲ることだった。
 放射線治療で髪の毛を失ってしまった弟。
 子供なので丸坊主でも違和感はなかったが、母は僕にもそれを強制した。
「翼ちゃんだけがかわいそうでしょ。お兄ちゃんなんだから、同じ頭にしなさい。兄弟一緒ならみんなもかわいいって思ってくれるわ」
 僕は坊主になりたくなかった。
 学校に行けば事情を知らない意地悪な男子から「ハゲ」なんてからかわれるし、女子からは頭を勝手に触られるし、いい気持ちじゃなかった。
 でも僕は気持ちを押し殺す。
 お母さんの口癖、『翼ちゃんのため。翼ちゃんはもっと辛い思いをしている』はいつも耳にした。
 他にも、『翼ちゃんは今、生ものが食べられないの。免疫力が弱っていて、食べ物には気をつけなくちゃだめなの』と言われれば、それは僕にも課せられる。
 弟は入院と退院を繰り返し、家の中は弟を基本に生活する。
 お母さんは弟がほしがるものはなんでも与えようとした。
 ポケモンの好きなキャラクターのぬいぐるみはどんどん増えていく。
 自転車もそうだ。
 僕だってかっこいい自転車がほしかった。
 でも今持っているものがまだ乗れると言って買ってもらえなかった。
 弟だってすでに自転車をもっていたけど、新しくかっこいいのがほしいとねだればお母さんはすぐに買い与えた。
 結局その自転車は弟が一度も乗らず、きれいなまま家に置いてある。
 お母さんは弟が長く生きられない事をわかっていて、弟が望むことは全て与えてやりたかった。
 僕よりも積極的で人懐こい弟は人に好かれる事を本能的に知っていた。
 お母さんは弟が病気になる前から僕よりも弟の方を贔屓していた。
 僕は怒られるとすぐにくよくよし、言葉数少ないからつまんないと思われがちだ。
 そこに夜尿症――俗に言うおねしょだ――があって、小学高学年になってもときどき粗相をしていた。
 お母さんにとって僕はやっかいものだった。

 畳の上に転がった弟の写真は、相変わらずあどけなく笑ったままだ。
「何をするの!」
 すぐさま写真を拾い半狂乱になったお母さん。
 目を三角にして僕の前に来て、思いっきり僕の頬を叩いた。
 そして涙目で僕を責める。
「病院先で翼ちゃんの気分がよかったあの時、翼ちゃんはお兄ちゃんに会いたがっていた。でもお兄ちゃんは病室にいなかった。私がお兄ちゃんを探しにいってるとき、翼ちゃんは、翼ちゃんは……」
 嗚咽で母は言葉に詰まる。
 あの時のことは僕だってはっきりと思いだせる。
 お母さんが僕を探しに病室を出たとき、弟に異変が起きたのだ。
 結局僕を探しきれずに、お母さんが諦めて病室に戻れば、弟はすでに息を引き取っていた。
 弟をひとり寂しく死なせてしまったと悲しみに耐えられなかったお母さんは、怒りの矛先を僕に向けた。
『司のせいよ。司が悪いのよ』
 何度といわれた言葉だった。
 僕は弟の葬式でも涙を流さなかった。
 お母さんはそのことでも僕を責めた。
『翼ちゃんは最後までお兄ちゃんの事を思っていたというのに、なんて冷たい子なの。司は翼ちゃんが死んで悲しくないの?』
 僕は自分が何を思っていたのかわからなかった。
 小学五年生の僕はまだ小さすぎて、弟がいなくなってしまったなんてピンとこなかった。
 感情を押し殺す癖がついていた僕は、この悲しみもそうしないといけないことのように思えたし、最期をひとりでいってしまった弟が僕を怒っているように思えて怖くて震えていたのだ。
 親戚が言っていた言葉が僕の耳に入る。
『司ちゃんはずっと我慢していたから弟が死んでほっとしているのよ』
 みんなそんな風に僕の事を思っている。
 益々怖くなって、その罪滅ぼしから僕は弟のためにとサッカーをする。
 弟が好きだったサッカーで強くなって弟に許してもらいたい。
『翼のために僕は頑張ってるんだよ』
 とてつもない罪悪感の恐怖から逃げるように、僕はいい兄を演じようとする。
 それがお母さんの目にはしらじらしく映っていた。
 お母さんは弟がなくなってから魂を奪われたように落ち込んだ。
 そのうちネジが跳んだみたいにおかしくなり、毎日弟の写真の前でぶつぶつ話をして、弟がそばにいると信じ込んだ。
 お母さんは僕よりも死んでしまった弟ばかりを見るのは僕を許せないからだ。
 弟の死は僕も母も壊してしまい、どちらも弟の亡霊に取り憑かれてしまった。
 弟じゃなく僕の方が死ぬべきだった。
 僕は和室から飛び出し、自分の部屋へ続く階段を駆け上がる。
 後ろからお母さんの泣き叫ぶ声が聞こえていた。
 僕は自分の薄暗い部屋に飛び込みばたんとドアを閉め、勢いつけてベッドに突っ伏し息を荒くしていた。
 叩かれた頬が熱くジンジンする。
 あれは弟なんかじゃない。ただの写真だ。
 弟はとっくにこの家からも、この世からもいないんだ。いい加減に僕を許してくれ。
 やるせない思いが衝動を起こさせる。
 そうだ、僕が弟に謝りに行けばいい。
 クローゼットから手探りでTシャツを取り出す。
 机の引き出しから取り出したハサミでそれに切り込みを入れた。
 切込みが入ったTシャツは力を入れて引っ張るとビリビリと音を立てて引き裂かれただの布となる。
 それを持って引っ掛けられるものはないかと探した時、ぼんやりと浮かび上がった真鍮のドアノブを見つめた。
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