第四話

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案内されるがまま、女性についていけば、二人はうかない顔をし始めた。
 そこは一階の一番端の部屋、丁度隆道の真下の101号室だった。
 この部屋は殺人現場になった、いや、これからなるところである。
 お互い同じ事を思っていたのか、顔を見合わせてあたふたとしていた。
 女性は開けたドアを支え、控えめに微笑んだ。
「さあ、お入りになって下さい」
「いや、その、なんていうのでしょうか、その……」
 ヨッシーも何を言っていいのかわからなくなっていた。
「遠慮なんていいんですよ、気にしないで下さい」
「いや、そうじゃなくて、その、あの、一刻も早くここから逃げた方が」
 杏里はこの女性が殺されるのではと思ってしまう。
 その時、女性が唇に人差し指を当てて「シー」と静かにしろというサインを見せると、辺りを見回して用心しだした。
「なんだかもうお気づきのようですね。とにかく中に入って」
 女性もまた、何かを気にするかのように変な態度を見せていた。
 二人は何が起こっているか把握できずに破れかぶれになって、部屋に入り込んだ。
 間取りは隆道の部屋と全く同じだった。ただ、家具がある分狭く見え、生活感に溢れていた。
「今、お茶をお入れしますね。適当に座って下さい」
 部屋に入ってしまった分、次は靴を脱いで上がるしかなかった。すぐ目の前にダイニングテーブルがあったので、二人はそこに腰を落ち着けた。
 女性が用意するお茶の仕度の音が聞こえる中、杏里はヨッシーを見て、声なき言葉で、口をパクパクして色々と示唆するも、ヨッシーも何が起こってるのかわからずに、目を見開いて首を横に振る。
 女性はポットから熱いお湯を急須に注ぎ、それを静かに湯飲みについで、そして杏里とヨッシーの目の前に差し出した。
「どうぞ」
 二人は慌てて頭を下げて、そして湯飲みを手にしてお茶をすすった。
 一口飲んだ後、杏里は思いきって話し出した。
「あの、私達はその」
「引越し業者さんでしょ」
「まあ、そうですけど、でもなぜ声を掛けて下さったんですか?」
「それは、すでにお分かりの様子かと。そういうご商売をなさっているから大体察しがつくのではないですか?」
「えっ、いえ、その」
 全然この事態が把握できてないので、杏里もヨッシーも顔を見合わせていた。
「気を使って下さらなくてもいいんですよ。私が逃げた方がいいということも、わかってますから」
「それじゃ、これから何が起こるか分かっていらっしゃる?」
 犯人が何らかの理由でこの女性に危害を与えようと乗り込んでくるのではと思うと杏里は気が気でなかった。
 この女性は何らかのトラブルを抱えてストーカーされてるのではと憶測する。
 ヨッシーもそう思ったのか、湯飲みを手にしたまま固まっていた。
「はい、そのためにも是非あなたたちに協力して頂きたいのです」
「協力!?」
 話はまたいろんな方向へと飛んでいく。協力となると、もしや、ここに入り込んでくる犯人を始末するということなのだろうか。
 それこそ殺人事件。まさか自分たちが関与する羽目になろうとは──
「いえ、そ、それはできません」
 杏里は手を横にヒラヒラとさせて、必死に断った。
「な、なぜですの? あなた達はそれがお仕事では?」
「仕事? まさか、そんな人を殺すなんて」
「はい? 何を仰ってるの? 私はただ荷物を運んで頂きたいだけです。夜逃げの手伝いをして欲しいんです。もう借金取りに追われるのは嫌」
「えっ? 夜逃げ?」
「そうです。たまたま、引越し業者さんが居て、お仕事の取り合いされてたみたいだから、よかったら私のを手伝ってもらえるかと思って声を掛けました。お願いします。今夜、夜逃げを手伝って下さい」
 頭を下げて頼まれると、杏里もヨッシーも嫌とはいいにくかった。話は二人の意志に反するまま、何かの波に押し上げられるように事が進んでいく。
 ここで殺人事件が起こることがこれから確定しているのなら、この女性を逃がした方がいい。
 そう思うと、二人は手伝うことを承諾した。
「それで、持ち出す荷物ですが、ここにあるもの全て持っていくのでしょうか?」
 ヨッシーが訊いた。
「全ては無理です。必要なものだけもっていければいいです。それよりも、この私を運んで頂きたいのです」
「なるほど、黙って遠くに行きたいってことですね。かしこまりました。それならお易い御用です。どちらにお運びしましょう」
 女性は立ち上がると地図をどこからか引っ張り出してきて、それをテーブルに広げヨッシーに見せていた。
 その間、杏里は天井をじっと見つめ、憧れていた隆道の事を考える。
 顔が違うのもかなりの影響だが、あの意地悪そうで怖い隆道はどうも好きになれなかった。
 これから整形して、自分の姉と出会うことを考えるとなんだか不安になってくる。
 しかし、これだけは自分の胸にしまっておくしかなかった。
 こうやって、憧れていた気持ちが消えうせただけでも、よかったことなのかもしれない。
 そう思うことで、杏里はこの結果も悪くなかったと思えた。
 そして、過去が一つ変えられるのなら、殺人事件の方をなかったことにしたい。
 この女性を助けられることに意味があると、急に使命感に燃えてきた。
「それじゃ、早速、いきましょうか」
 ヨッシーが立ち上がる。
「夜逃げっていうくらいだから、夜まで待たなくていいの?」
 杏里が言うと、ヨッシーは背筋を伸ばし、きりっとした自信溢れる笑みを向けた。
「この私を誰だとお思いですか。こんな事朝飯前です。誰にも見つからず、この方を遠くへ逃がすことなんて問題ないです。さあ、早く荷造りを」
「は、はい」
 女性は立ち上がり、言われるままに奥の部屋に入って、押入れから鞄を取り出すと、詰められるだけのものをつめていた。
 そして、準備が整った時、女性は冷蔵庫から赤いものが入った袋を取り出した。
「なんですか、それは?」
 ヨッシーがまじまじと見ている隣で、杏里は仰天した。
「こ、これは血じゃないですか」
「そうです。これは私の血です。以前献血先で、献血をするフリをして、こっそりと自分の血が入ったパックを持ち出してきました」
「一体どうするんですか?」
「これをここにばら撒いて、私が殺されたと思わせたいのです。そして私はよその場所で新しい名前で生きていきます」
「ああ、そういうことですか」
 ヨッシーは全てが分かったように、首を何度も感慨深く縦に振っていた。
 なぜ死体が見つからなかったのか、それはここで殺人事件など、起こらなかった。
 血痕の痕は、この女性が予め用意してわざと撒き散らしたものだった。
 杏里もこの先の未来と繋ぎ合わせながら、この事件の発端に笑い出した。
 女性が奥の部屋の畳の上に自分の血を撒いているところはグロテスク気味であったが、これが死体なき殺人事件の答えだとわかるとすっとした気分だった。
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