第一章


 展示品を見つめおばさんは暫く静かになった。どうやらおばさんの話が終わったようだ。
 私も展示品をじっと見つめる。
「ウェンに会ったんですね」
 ようやく私は口を開く。
「そうよ。それで、これをここに展示してもらったのよ。これは佳奈ちゃんと一緒に買ったお揃いの傘なの。あの時のこと佳奈ちゃんに許してほしくて……」
 おばさんが、涙をためながら私に振り向く。
 私も同じように泣いていた。おばさんの話をどう受け止めたらいいのかわからないけど、私にとってもその話はとても大切なものだった。でも何から話していいのかわからない。でも感情が高ぶってくる。
「その話、もっと早くすべきだったと思う。例え、クラスで一緒のグループで過ごせなくても正直な胸のうちを伝えてたらよかったんじゃないかな」
 私は少し怒っていたのかもしれない。なんだか少しだけ文句をいいたくなった。
「でも、中学のとき虐められていた私を庇ってくれたのに、用がなくなったからさようならなんて言えなかった」
「でも、結局は態度でそうしてたんでしょ。それならはっきり言ってほしかった。喧嘩した方がもっとすっきりする。そんなのずるいよ、亜由美ちゃん!」
 私はおばさんの名前を叫んでいた。
「えっ、なぜ私の名前を?」
その時、私の顔を覆っていた仮面がひらりと落ちて、また蝶に戻ってひらひらとどこかへと飛んでいった。
 暗かった部屋も明るくなり、お互いの姿がはっきりと見えたとき、私の顔を見て亜由美ちゃんは大いに驚く。
「うそ、佳奈ちゃんなの? 佳奈ちゃん……」
 おばさんは一層泣き出した。
 一体ここで何が起こっているのか。私はこのからくりがわかった。
 ガラスのケースには、白い水玉模様の卵色、そしてレインコートを着たクマのワンポイントがついた傘が飾られている。幾分古く見えるけど、私と同じ傘だ。これを持つのは、一緒にお揃いで買った亜由美ちゃんだ。この傘はお揃いで持つために亜由美ちゃんと選んだ傘だった。
 でも亜由美ちゃんは私より遥かに歳をとっている。私はまだ高校生のままだ。
 これは、ウェンの仕業に違いない。
 ウェンはWhen、すなわち時を表す疑問詞だ。
 『その時にその部分の役割を担うものが登場』と言っていた。だから大人になった亜由美ちゃんを時を隔ててここに連れてきた。この傘を博物館に飾らせて、それを私が必要とし、そこから私の物語が始まるように仕向けた。
 亜由美ちゃんには終わった話かもしれないけど、私は今がちょうどその物語の最中。
 でもちょっと待って、亜由美ちゃんの話が本当なら、私は交通事故にあって死ぬ? しかも命日が今日? 私は筋道を立てるために頭の中を整理する。
「亜由美ちゃん、私たちは今、時を越えてこの博物館で会ったんだと思う」
 私がそういったとき、後ろから声がした。
「その通りです」
 私たちが同時に振り返れば、ミシロがこっちに向かって歩いているところだった。
 私たちは席を立ち、彼女の方を振り向いた。
 ミシロは私と亜由美ちゃんを交互に見たあと、物静かに微笑んだ。
「おふたりともお疲れ様でした。物語はいかがでしたか?」
 他人事のようにさらりと訊くミシロに私はムッとしてしまう。展示品に反応して物語を見せられたからといって素直に楽しんだわけじゃない。
 でも亜由美ちゃんは少なくとも満足していた。私が許す許さないにしろ、一応は懺悔して私に謝れた事実があった。
 過去と未来が交差するこの世界は、亜由美ちゃんにとっては過去のことだろうけど、私にとっては未来の話だ。もしかしたら交通事故に遭う私の運命を変えられるのではと多少なりとも期待しているのかもしれない。だから亜由美ちゃんは言った。
「あの、これで佳奈ちゃんは交通事故に遭わずにすんで、彼女の未来が変わるかもしれないんですよね?」
 亜由美ちゃんの時間では私は死んでいることになっている。交通事故を回避すれば、私は歳をとった亜由美ちゃんのいる時代に、同じように歳をとって存在していることになるのかもしれない。
「佳奈さんのこの先のことはどうなるか私もわかりません。でも亜由美さんの過去は変わることはありません」
 亜由美ちゃんの顔が強張り、私もミシロの言ってる意味がすっと頭に入ってこなかった。
「どうしてですか。佳奈ちゃんが交通事故に遭わなければ、死ななくてすむのではないんでしょうか?」
 亜由美ちゃんは私を助けたいと思って必死に訴えていた。
「ここは過去と未来を繋げる場所ではありません。物語を見つける場所に過ぎません。亜由美さんが過ごしてきた世界と佳奈さんのこれから歩まれる世界は別物。平行世界になってしまうのです。この博物館はどこにも属さない時間の流れと場所を彷徨っているのです」
 事務的に言うミシロが少し冷たく思えた。彼女にとってそれが仕事なのだから仕方ないのだろう。
「佳奈ちゃん!」
 亜由美ちゃんが突然私を抱きしめた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「亜由美ちゃん……」
 亜由美ちゃんのぬくもり。そこには色んな経験をして大人になっているのが感じられる。
「私を許してとは言わない。でも生きて。絶対に死なないで。そして佳奈ちゃんの世界にいる私に『バカ!』って言って叱って」
 亜由美ちゃんはずっと苦しんできた。もうそれで十分かもしれない。そして今、私を助けようとしている。私を助けても亜由美ちゃんのいる世界では私は存在しないのに。
「亜由美ちゃん、わかった。私もね、亜由美ちゃんの本音が知れてよかったと思う」
 そうだ、私も反省すべきことなのかもしれない。
 あの時、亜由美ちゃんが中学で虐められたのは、喧嘩した女の子が亜由美ちゃんに嫉妬していたからだ。亜由美ちゃんは美人で目立つ存在で私にとっても憧れの人だった。その人気が疎ましくて妬んでいた人たちは亜由美ちゃんが嫌われるようにクラスで嘘を言いふらした。
 亜由美ちゃんがクラスで孤立していたとき、私はチャンスだと思った。もしかしたら友達になれるかもしれない。案の定、私は弱っている亜由美ちゃんにとりついて恩を売った。
 亜由美ちゃんはもう私から離れないに違いない。私は亜由美ちゃんが好きすぎて、べったりと付きまとう。中学時代はそれでよかったかもしれない。でも高校生になったらそうはいかなかった。亜由美ちゃんと友達になりたい人たちがたくさんいた。
 誰よりも亜由美ちゃんを独り占めしたくて付きまとい、甘えてばっかりだった私。時には駄々をこねて困らせたこともあった。でも亜由美ちゃんは中学の時の 恩があるからと我慢していた。私もそれを利用してずるかった。亜由美ちゃんが離れていって当たり前だ。亜由美ちゃんは高校生になって変わろうとしていたけ ど、私は何も変わろうとしないで亜由美ちゃんの足を引っ張るだけだった。
 そんなうじうじした私が好かれるはずがない。
 私は大人になった亜由美ちゃんを見つめた。
「私、亜由美ちゃんに負けないくらいのいい大人になるからね。大人になった亜由美ちゃんもやっぱりきれいで素敵だ。ここで会えてよかった。だから私たち今からまた友達になろう。この先会えなくても、今の大人になった亜由美ちゃんとずっと友達でいたい」
「佳奈ちゃん」
 亜由美ちゃんは泣き崩れていた。
「ミシロさん、お願いがあります」
私はミシロと向かい合う。ミシロは軽く目じりを拭って背筋を正した。私たちの話に貰い泣きしていたみたいだ。そんなに冷たい人じゃないのかもしれない。
「はい、何ですか?」
「私もこの博物館に展示してほしいんですけど」
「何をでしょう」
「私の持っている傘です。それを亜由美ちゃんが展示した傘と一緒に飾ってもらえませんか?」
「わかりました」
 ミシロは快く承諾してくれた。
 ここに私と亜由美ちゃんの傘が一緒に飾られる。それを誰かが見てくれる。どういうつもりでここにあるのかは分からないかもしれない。でも私たちはその事をよく知っている。大人のあゆみちゃんと再び友達になれた記念をこの博物館に飾ってもらう。
「亜由美ちゃん。これで私たちは離れても、傘はずっと一緒だよ」
「うん、そうだね、佳奈ちゃん」
 私たちがガラスケースを見たとき、そこにはすでに二本の同じ傘が仲良く並んで飾ってあった。
いつの間に。ミシロの仕事の速さに私は驚いてしまった。
 とにかくこの博物館は色々と事が運ぶみたいだ。
 そして、この博物館に飾ってるものはガラクタなんかじゃない。その人にしかわからないたくさんの物語が詰まっている。
 最初はつまんないなんて思っていた私だったけど、今はどんな思いが込められてるのか想像してしまう。
「しばらく、亜由美ちゃんとふたりでここで過ごしてもいいですか?」
 私はミシロに訊いてみた。
「はい、それは構いません」
 ミシロは一礼をすると、私たちをふたりきりにして去っていった。
 その後、私と大人の亜由美ちゃんは時間が許す限り、一緒に博物館の中を見て回った。
「元の世界に戻ったら、通学途中の交差点に気をつけて。特に右折してくるトラックを見たら絶対に道路を渡らないでね」
 さっきから亜由美ちゃんは同じ事を何度も言っていた。
「何度考えても、ピンとこないんだけど、その時横断歩道は赤信号だったんだよね。なんでそんなところを私は無理して渡ろうとするんだろう」
「雨が降っていたし、傘で視界が悪かったのかもしれない。うっかりってこともあるから気をつけて」
「大丈夫、必ず気をつけるから」
 私は固く約束する。
「おばちゃーん、そろそろ、時間ですよぉ」
 振り向けば、ウェンが浮遊していた。
 お別れの時を悟った亜由美ちゃんは私をもう一度抱きしめた。
「佳奈ちゃん、元気でね」
「亜由美ちゃんもね」
「佳奈ちゃんが別の世界で生きてるって思うだけで、頑張れそうな気がする。ここへ来てよかった」
「私はこれから、もうひとりの亜由美ちゃんと話し合う。今度は私が大人になって、亜由美ちゃんに気に入ってもらえるように頑張るから」
 亜由美ちゃんは涙をためながら必死で笑おうとしていた。
 ウェンは亜由美ちゃんの手を握って、もう片方の手で私にバイバイと振ると、ふたりはすっと目の前から消えていった。
「あっ」
 なんだかあっけなかったけど、私はまだ亜由美ちゃんに会えるチャンスはある。
「どうじゃった、この博物館は?」
 今度は、足元から声がした。
「あっ、おじさん」
 ウェアが自慢のひげを指でつまみながら、私を見上げていた。
「とてもよかったです」
「そっか、気に入ってもらえてわしも嬉しいぞ。出口でワットとイットがお前さんを待ってる」
 ウェアが言うと、やはり目の前に出口のドアが現れた。私はドアを開ける前に訊いた。
「あの、またここに戻って来れますか?」
「さあ、どうじゃろ? それはお前さん次第かもしれない。ここが必要になれば自然とそうなるじゃろうし、そうじゃないかもしれない」
 ウェアはなんだか悲しそうな瞳を私に向けた。
「私はまたおじさんやウェンに会いたいなって思ったんだけど」
「おお、そうか、わしらの事が気に入ってくれたか。じゃあ、お前さんがここに来る気配がないときはわしから遊びにいってやろう。その時は怖がらずにダンスの相手をしてくれるかのう?」
「はい、もちろん」
 私はウェアを持ち上げ、ぎゅっと抱きしめた。
「おいおい、何をするんじゃ」
「ありがとう、おじさん」
 ウェアは顔を赤くしながら照れていた。そっと床に置いて、私は扉を開ける。
 雨はすっかり止んでいた。
 少し離れた先で、バスのイットと、制服を着た青年のワットが手を振って私を待っていた。
「お嬢さん、くれぐれも気をつけてな。全てはお前さん次第だぞ」
 名残惜しそうにウェアに声をかけられると私も寂しさがこみ上げた。また会えると信じてバスへと向かった。
「お帰りなさい。朝のときと比べてなんだか顔がすっきりとしてますね。幾分か大人びたというのか、垢抜けた感じがします」
「大げさな」
 そうは答えてみたけど、私もそれは自分で感じていた。
 何かが変わるかもしれない。
 そのためにはこれから起こりえるかもしれない事故をかわさないといけない。
 亜由美ちゃんとの約束――それは絶対に死なないこと。
 私は事故なんかに遭うもんか。
 意気込んでバスに乗り込んだ。何度乗ってもふかふかとして気持ちよかった。

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