第四章


 あれは昼を過ぎた頃だった。電話がかかってきたので、予約だと思って取れば、動物の安楽死についての問い合わせだった。
「安楽死の費用なんですが、おいくらですか」
 言い方は丁寧だった。でも値段だけを聞いてくることにいい印象がなかった。
「一体どういうことでしょう」
 とりあえず話を聞く姿勢をもってみたが、電話の主は値段が知りたいとそれしか答えない。仕方なくそれに答えた。
「一万四千円ですが」
「そうですか。少しだけ高いんですね……」
 きっと国道沿いの動物病院にもすでに問い合わせて値段を比べているのだろう。
私は腹が立ち感情任せに言ってしまった。
「それなら安いところにいけばいかがでしょう。でも安易に動物を安楽死させるのも如何かと思いますが」
「そんなの分かっています。以前先生にご相談させて頂きましたが、うちの猫は水分を体に吸収できないので一日に一リットル以上もの水を飲み、尿も多い。し かもてんかんがあって長生きができないとおっしゃいましたよね。今回引越しをするのでどうしても飼えない事情があるのです」
 この話を聞いてこの人が誰だか想像がついた。松野と名乗っていた人だ。いつも猫の費用の事を気にする人だった。いい大人なのに落ち着きがない様子で、自分の鞄を忘れて帰るようなまるで発達障害を持ってる感じがした。
 確か猫の名前がタイガーだった。そういう脱水とてんかん持ちの持病があるから、去勢する時はその症状に気をつけながら慎重に手術した。
 その分費用が少し割高になってしまった。それでも無事に手術が終わった時は感謝されたものだった。
 見た感じ大切に飼っていた様子だったように思えたけど、病気の事を気にしててんかんがでないようするにはどれだけの費用がかかるのか相談にのったが、それは治るものではなく生まれつきのものでどうすることもできず、長く生きられないかもしれないと言った。
 私に対して少しムッとしたようなフラストレーションを感じたのがあからさまだった。こっちだって助けたくても無理なことくらいある。
 去勢後は一回しか診察に来なかったけど、久々に連絡があればいきなり安楽死とは何事だろうか。
 引越しするから飼えない。だから安楽死させる。なんとも勝手だ。
「それならば、誰か飼える人を探すとか、もっと他にやり方があるでしょう。生き物の命をなんと思っているんだ」
 思わず言ってしまった。
「それなら先生はこの猫がほしいと思いますか? 手がかかって病気もちですよ。先生なら引き取ってくれるんでしょうか」
 売り言葉に買い言葉。相手も腹を立ててしまった。
「とにかく、うちは安楽死はお薦めできません。費用のことも気にするのであれば、納得のいく値段のところでいかれるとよいでしょう」
「わかりました。お手数おかけしました。失礼します」
 電話はそこで切れた。
 会話が終わってからも気持ちが高ぶって落ち着かない。飼い主の顔も思い出し怒りしかその時湧き起こらなかった。
 それを全て話し終えた時、田中も山路も言葉につまって暫く何も言えずにいた。
「すまないな、折角久しぶりに会ったのに、こんな重い仕事上の愚痴なんかこぼして」
 切り替えようとジョッキを手に取りビールを一口飲んだ。
 動きが止まっていた田中と山路も同じようにビールを口にした。
 どのように言っていいのかどちらも思案しているのか、暫く考え込んでいる様子だった。
「分からないこともないけど……」
 先に言い出したのは田中の方だった。一体どっちの味方なのだろう。俺に同情しているのか、それとも猫の飼い主か。その一言ではわからなかった。
「色んな飼い主がいるもんだ。動物の命を助けるだけでは済まされない大変さがあるんだな、獣医って」
 山路は俺を労ってくれている。
「まあ、こうやって愚痴を吐き出せただけでもすっきりしたよ」
私も気持ちを切り替えるべきだ。久々に会った旧友だ。ここは仕事のことは忘れて楽しまないと。
「そういえば、田中も猫を飼ってたな」
 山路が言った。
「ああ、母がな。猫好きだから好きにさせてる」
「田中のお母さんが飼ってるのか。それなら安心だ。お前だったら世話なんてできないだろう」
 私がさっきのお返しにと意地悪く言ってやった。
「ああ、俺には世話は無理だ」
 田中は開き直って笑っていた。
「今日は折角集まってくれたんだ。ここは私が奢るよ」
 この場を盛り上げるためなのか、今日と言う日を楽しいものに変えたかったのか、私はついいい格好をしてしまった。
「おっ、サンキュー」
 田中は素直にそれを受け入れた。
「おいおい、気を遣うことないんだぜ」
 山路は遠慮していたが、会計でお金を払うときにはそれを受け入れていた。
 お酒を飲みながら話をすればすっかり気が紛れ、お開きの時にはほろ酔い加減にいい気分だった。

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