第二章


 葉羽と会えたのは、梅雨が明けた本格的な夏が始まる頃だった。
 俺が学校から帰ってくると、白いセダンが葉羽の家の前で止まって、ちょうど葉羽が車から降りてくるところだった。
 母親が運転する車は車庫に入らずに、まだ用事があると葉羽を置いて去ってしまった。
 葉羽は学校へ母親の車の送り迎えで通っているらしい。
 なんと優雅な待遇だろう。
 自分とは違う境遇に、少し嫉妬のようなムカつきが現れた。
「悠斗君?」
 葉羽は驚いた顔を俺に向けながら、じっと見つめていた。
 まだまだ子供っぽい面影を残しながらも、小学生の頃と違い葉羽は女の子らしく成長していた。
 髪は肩までかかるセミロング、すらっとした手足、透き通るように白い肌、そして私立の中学のセーラー服がとても似合っていて清楚なお嬢様そのものだった。
 ただ、肌の色が白すぎて青白くなっているのは病人みたいだった。
 貧血を起こしたのが原因だろう。
 この前まで入院してたくらいだ。
  まだ体の調子もすぐれてないのかもしれない。
 そのせいで儚げさが漂って、益々葉羽が妖精のようにみえてしまった。
 妖精──。
 懐かしい響きがした。
 サボテン爺さんも葉羽をそう呼んでいた。
「久し振り……」
 とりあえず愛想もなく、ありきたりの言葉を俺は返していた。
 この時久し振りに会えた嬉しさをもっと素直に出せばいいものを、ほんの少し口元を上げるだけでよかったのに、俺は目を節目がちによそよそしい態度を取ってしまった。
 葉羽は俺の態度に失望したのかもしれない。
「悠斗君、なんか変わったね」
 葉羽の声は寂しそうに切なく聞こえた。
「変わってなんかねぇーよ」
 いかにも鬱陶しげに吐き捨てるようないい方だった。
 こんなところで反抗期丸出しになってしまい、それは八つ当たりにも等しい。
 久し振りに会えたというのに、会いたいとさえ思っていたのに、なぜか葉羽の前では自分の弱みを見せたくないように無意味に生意気な態度を取ってしまう。
 それでも葉羽はニコって精一杯に微笑んだ。
「また会えて嬉しい。あっそうだ。あれから手品少しは上手くなったんだよ。今度見せてあげるね」
 葉羽は小学生の頃と同じ態度で、俺に接しようとしていた。
 でも俺には心の余裕がなく、あの夏から同じだけの時間を過ごしていたのに、環境が違ったせいで昔のようには振舞えなかった。
 葉羽は見るからに高貴なお嬢様となり、俺は虐めで逃げてきた負け犬、おまけに貧乏とさらなる修飾語がつく。
 あまりにも違いすぎて惨めになった。
「どうせまた下手くそで失敗するんだろ。そんなの見せられても困るよ。じゃあな」
 俺は本当に最低な奴だった。
 久し振りの再会の喜びを分かち合うどころか、貶してどうするんだと、自分でも嫌になってきた。
 葉羽は退院してきたばかりの病み上がりでもあるのに、どうして気遣う優しい声がかけられなかったのか。
 俺の心はあまりにも屈折しすぎて、俺に優しく接してくる人に刃を向けてしまう愚かさに、自分でもジレンマを感じるくらい奥歯を強く噛んでいた。
 俺は葉羽の顔も見ず、さっさと家の中に入って行った。
 葉羽はその時どんな顔をして俺の事を見ていたのだろうか。
 そんなに気にするのならあんな態度を取らねばよかっただけなのに、俺はその晩何度もベッドの中で寝返りを打っては苦しさで眠れなかった。
 次の日から、俺は家の玄関のドアを開けるのが怖くなる。
 外に出てもし葉羽に会ったら、どんな顔をしていいのか分からない。
 毎朝、家を出るときドアノブを掴む手が怯えている。
 そして、学校から帰ってくるときも、家が近づくと今度は足に力が入り緊張してしまう。
 葉羽を意識しすぎて、自分のとった行動が愚か過ぎて、謝ることも出来ずに、一人で苦しみの膜をはったようにそこから抜け出せないでいた。
 幸いといっていいのか、葉羽とは目と鼻の先に住んでいながら、その後、暫く会うことはなかった。
 そんな時、夏の暑さが増すにつれ、体調もあまりよくないらしく、貧血が癖になり週に一回病院に行っては点滴を打っているという事を伯母の口から聞いた。
 鉄分不足は女性にありがちだと聞くが、小さい頃から細かっただけに元々食が細いところもあるのだろう、しっかり肉や魚を食えと思ってしまった。
 そしてそれから俺はなぜか鉄分のサプリメントや鉄分が入った食品に目が行ってしまう。
 俺も俺なりに葉羽の事を心配していたと思う。
 意地っ張りのせいで素直にそれが表現できなくて、どこか卑屈になりすぎて、それなのに葉羽からの歩み寄りを望んでるという始末。
 次こそは、次こそはと身構えるが、やっとまた会えたときは、声を出すことなくお互いの目を見て終わるだけだった。
 夏休みに入る頃、葉羽の家族全員を乗せた車が、家の前に止まったのを見かけた。
 葉羽が車から降りてきたときは、またぎこちない態度になったが、兜が「おっす」と明るく挨拶したことで俺の負担が少し軽減されて気が楽になった。
 さらに葉羽の母親も父親も一緒にいたので、俺は幾分か生意気な態度を取る事が抑えられ、猫を借りてきたように礼儀正しく頭を下げて挨拶をした。
 葉羽の両親は揃いも揃って優しげで上流階級な気品が出ていて、俺も失礼なことはできないと緊張してしまう。
 気軽に話しかけてきたので、他愛もない受け答えをし、この日、伯父が出張で、伯母の帰りも遅くなることまでベラベラと話してしまった。
 伯母は趣味の集まりで時々出かけていく。
 花咲家もその話は聞いていたのですんなりと理解すると、大らかな気前よさでその日、俺は、花咲家から夕食の招待を受けてしまった。
 冷蔵庫には食べるものは沢山あり、一人でも適当に食べられるからと断ったにも係わらず、それが遠慮と思われてしつこく誘われた。
 兜も側で喜んで何度と「おいで」と言ってくる。
 葉羽はその時どのように思っていたのだろうか。
 ちらりと葉羽を見れば、素直に笑ってるその姿に俺は気が緩んでしまい、結局はそれが一番の理由になったと思うが、夕食の誘いを受けることにした。
 一旦家で服を着替え、花咲家に行くと兜が元気に迎えてくれた。
 家の中へ入ると、小学生の時に遊びに来た感覚が思い出された。
 懐かしく、そしてあの時の自分はまだまともだったと、過ぎ去った時の流れが恨めしく思えてきた。
 ここの街で暮らせていたら、俺は今よりはまだましな性格になっていたことだろう。
 やはり、住む世界が違うこの嫉妬にも似た悔しさが、どこかで沸々としていた。
 それは決して葉羽のせいではないのに、葉羽と対等になれない自分の悔しさが劣等感を強く引き出していた。
 葉羽は透き通った光につつまれるように、ただ自分の手の届かない場所にいるように思えてならなかった。
 夕食はホットプレートの上で焼いて食べる焼肉だった。
 俺はホットプレートに一番届きやすい席に案内されたが、隣に葉羽が座ったことで箸を気軽に伸ばせなかった。
 またそれが遠慮と見なされて、俺の皿に母親がどんどん肉をのせていく。
「悠斗君、どんどん食べてくれていいんだよ」
 ビールを片手にした父親が勧めると、俺はもうヤケクソで皿の上の肉を食い始めた。
 食事は文句なく美味しかった。
 ただ自分が得られなかった家族の姿を見せつけられるのは少し羨まし過ぎた。
 兜は小学生の不思議な感性で脈絡のない話をし、それに耳を傾けて、真剣に受け答えする父親。
 せっせとお肉を焼いて家族に充分行き渡るように気を配る母親。
 愛情をたっぷり注がれた可愛い二人の子供達。
 住み心地のいい大きな家。
 何もかも俺の目に映るものは、パーフェクトの何物でもなかった。
 それとも、それはただ隣の家の芝生が青くみえた、よくある出来事だったのだろうか。
 俺はまだ何も花咲家の事をよく知らなかったに過ぎなかったと気がつくのは、かなり後になってからのことだった。

inserted by FC2 system