第三章


 『きっと上手くいく』
 その言葉を信じて、唯香は朝のざわざわとする教室の中で、踏ん張って立ち向かい、異質の物質のように机についていた。
 いつもの唯香ではなかった。
 時間が経つにつれ、登校してくる生徒も増え、ざわめきも大きくなっていく。
 それぞれの友達と朝の挨拶を交わしている声が飛び交い、所々で塊になって騒いでいる生徒が多い中、唯香は微動だにせずじっとしていた。
 ナズナと綾はその様子をチラチラ見ながら、どうしようかと教室の隅で話し合っている。
 美代がまだ登校してきてないので、二人だけでどう行動していいのか決めかねていた。
 ナズナは弟の事で強気に唯香を責めたが、美代が唯香に万引きを強制したことで興ざめしてしまった。
 万引きを言い出したのは美代だったが、その根本的な原因はナズナの愚痴から始まったので、自分に都合が悪くなるのは困りものだった。
 あの時、サトミが現れ、寸前でそれを回避できたことに胸をなで下ろすも、美代は逆切れし、後味の悪いまま唯香と別れた。
 綾に相談しようも、自分は基本的には何もしてないからと逃げの一点張りで、解決方法が見いだせない。
 ややこしくなったことで、弟の問題を美代に言ってしまった事を後悔し、唯香にもどう接してよいものかわからなかった。
 綾も美代の顔色が気になり、ナズナを盾にして様子を見ようと、ただその後ろにいるだけだった。
 もし綾が唯香と二人きりでいたら、形だけでも肩を持つような言葉を掛けていただろうが、美代とナズナの存在のせいでそれをすることを憚られてしまう。
 唯香には何の罪もない事は綾も承知だが、ほんの紙一重で自分も唯香のように押さえつけられるのが怖くて、自分の地位を守るので精一杯だった。
 唯香をスケープゴートにしてやっと得た地位。
 それがずるくて馬鹿げているとわかってながらも、綾はズルズルと抜け出せそうにもなかった。
 ナズナも綾もこのまま美代が現れない事を願っていた。
 そうすれば、唯香に近づきやすく、少なくとも唯香とのわだかまりをなんとか払拭できそうに思えた。
 しかし、始業ベルがなる直前に美代がかったるく教室へ入ってくる様子が目に入った。
 ナズナも綾も、胸や胃がむかむかするような、気持ちの悪さを感じ、近づいていくる美代に圧迫感を感じた。
 とりあえず朝の挨拶を、喉から無理やり引き出した声で言うも、美代は「ふん」と鼻で返し、一人で座っていた唯香にすぐに視線を向けた。
「唯香となんか喋った?」
 美代に言われ、二人は首を横に振った。
「唯香の奴、なんかふてぶてしい感じだね。謝ってきたらまたグループに入れてやってもいいけど、それまでハブってやろうか」
「美代ちゃん、弟のペンのことはもういいよ。弁償はそのうちしてもらえると思うし」
「自分から愚痴っといて、今更なんだよ。全てナズナがそうさせたんじゃないか」
 確かに美代の言う通りではあるが、さらに悪化させてややこしくしたのは美代だと、舌の先まで出かかっていた。
 思わず言いそうになるのを堪えて、口を閉ざした。
「唯香ちゃん、なんかかわいそう」
 綾がぽろっとこぼした。
「なんだよ、綾。自分もうちらに賛成しといて、今更手のひら返すつもりか」
 美代に言われ、綾はしゅんと小さくなった。
 決して自ら喜んで賛成した訳じゃない。
 そうせざるを得ない空気に飲まれただけで、綾としては無理やり賛成させられたと思っていた。
 そんな事を美代に言えるわけもなく、口をぎゅっと閉じて俯いた。
 三人はチラチラと唯香を気にしながら、結局は仲間外れにするという態度を取っていた。

 ざわざわしていた教室は、担任が来ると静かになり、いつもと変わらない朝が始まった。
 毎日毎日、同じことの繰り返し。
 だが、確実に時間は流れ、中学一年生も残りわずかになってきた。
 期末テストが終わった後の授業も真剣さがなくなり、お遊びを交えた自由な学習になっていた。
 春休みが近づくこの時期は、普段話さない人たちとも最後だからと割り切り、気軽にお喋りして、全体的にふわふわした春の陽気に皆、影響されていた。
 その中で、唯香だけが一人ぼっちで休み時間を過ごしているのを見て、気になった女の子達が声を掛けてきた。
「どうしたの? 三田さん一人で」
「喧嘩でもしたの?」
 一人で座っている唯香の机の周りを囲んだ。
 クラスの中でもアニメオタクで癖のあるグループの人達だったが、唯香もアニメは好きだし、時々気軽に話したりしていた。
 美代は馬鹿にした態度で彼女たちを見下してしまうので、そのグループに所属する唯香も彼女たちにしたら近寄りがたかったが、彼女たちは唯香だけには親しみを抱いて気にいっていた。
 唯香と仲良くなりたくても、周りの友達がそうはさせないバリヤを張って邪魔をするので、この時は障害なく唯香に近寄れた。
 声を掛けてもらった唯香は、少し戸惑いながらも、側に人がいるだけで心強くなった。
 正直に「うん」と頷くと、皆、びっくりして目を丸くしたが、その後は「よかったら一緒に過ごそう」と快く受け入れてくれた。
「ありがとう」
 なんだか泣きたい気持ちになりながら、唯香は一人一人の顔を見ていた。
 このグループでは美代のようなリーダー的な存在もなく、好き好きに自由に見えた。
 美代たちとやりあう覚悟で挑んできたが、こんな展開になるなんて思ってもみなかった。
 休み時間が来るたびに、寄って来てくれる人たちと過ごしていたが、それを気にいらなさそうに美代が遠くから見ていた。
 
 自分が虐めて、唯香は自分たちのグループから省かれて孤立しているというのに、唯香が難なく他の友達と一緒にいるのを見るのは美代には癪に障った。
 それならば、こっちから折れてまた唯香をグループに引き込みたい。
 あいつらのグループに唯香がいるのは我慢できない。
 美代の心理は身勝手に、独占欲を刺激する。
 いらないと捨てたものが、誰かに拾われて価値がでて高額になると、返してといいたくなるのと同じように。
 思うように事が運ばなければ気のすまない美代は、放課後、ざわついたクラスの中、帰り支度をしている唯香の前に立ち、対峙した。
 後からナズナと綾も腰巾着のように側にやってきた。
 このまま仲たがいしている方が有難かった唯香にとって、美代がまた自分の前に現れるとドキッとして身が縮こまった。
 朝はそれなりに覚悟していたが、帰ろうとしている不意打ちを狙われて唯香は緊張した。

「唯香、何もあいつらと無理して過ごさなくてもいいよ。唯香だって、嫌々一緒にいるんだろ」
「ううん」
「何、無理してんだよ。昨日の事があるから、気がひけてんのか。終わった事はもういいよ」
 まるで唯香自身に非があるようないい方に、唯香の体がカッと熱くなった。
「美代ちゃんは、間違ってると思う」
「はっ?」
「よく事情も知りもしない癖に、勝手に判断してお節介を焼くこと」
「お節介?」
「私、もう美代ちゃんたちと一緒にいるのいや。放っておいて」
 美代を無視して、椅子から立ち上がり鞄を持って帰ろうとしたその時、「なんだよ、その態度」と感情をむき出しにした美代が手のひらで唯香の肩を押した。
 唯香はぐらつき、椅子や机に倒れ込んで、その反動で床がこすれる音が派手に響いた。
「ちょっと、美代ちゃん」
 ナズナは見かねて、美代を止めると、その騒ぎに周りの視線が集まった。
 美代はナズナに止められた手を振り払い、三角に吊り上った目で唯香を睨んだ。
「ふん、えらっそうに」
「えらっそうなのはそっちでしょ。いつもいつも押し付けて、思い通りにしようとして。私、疲れた」
 唯香は体勢を整え、無視して帰ろうとしたとき、また体を突かれたので、我慢ならなくて、「いい加減にしてよ」と気持ちを吐き出した後、同じように美代を突き返した。
「おい、そこ!」
 偶然教室の前を通りかかり、唯香が突き飛ばしたシーンだけを目にした生活指導の戸賀崎が、喧嘩だと思って中に入って来た。
「暴力的な事をしちゃいかん」
 事情を知らない戸賀崎は唯香だけを見て注意する。
 それが気にいらなくて、唯香は戸賀崎を睨みつけた。
 普段は苛立ちを他人にぶつける事のない唯香だが、自分だけが責められる要因が重なって、唯香は珍しく切れていた。
 先に注意するよりも、どうしたと聞けばいいものを、一方的に唯香が悪いように言われるのが我慢ならなかった。
 良く知りもしない癖に、勝手にきめつけないでよ。
 唯香の眼光が鋭く戸賀崎に突き刺さる。
「反抗的態度はやめなさい」
 話が通じない悔しさが先に心を支配して、唯香は無視をして去ろうとすると、戸賀崎は唯香の腕を取った。
「待ちなさい」
 それを振り払おうと唯香は抵抗し、運悪く先生を叩いたようになってしまい戸賀崎の心証が悪くなってしまった。
 それで唯香は生徒指導室に呼び出され、戸賀崎に注意を受ける羽目になってしまった。
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