Temporary Love

第二章


 便座を上げたトイレの前。
 なゆみは我慢していたものを吐き出した。
 胃がひっくり返って上に登ってくるような苦しさと、出てしまうものは仕方がないあっぱれな勢いに、何も考えられなくなっていた。
 氷室は顔を背けながらも、なゆみの背中をさすっている。
 悲惨な戻す音が聞こえると反射的に顔が歪んだが、慣れない酒を飲み、自棄になったところは同情して哀れみを誘う。
 堂々と目の前で吐いていても、なんだか愛しいような感覚を覚える。
 弱りきって醜態を見せられると益々放って置けなくなった。
 氷室は何も言わず、適当にレバーを引いて、何度と流してやる。
 吐くことは何も恥ずかしいことじゃないんだと、さらになゆみの背中をさする手に力が入った。
 胃の中が空っぽになれば、吐き気は止まり、やっと落ち着いた。
「大丈夫か」
 氷室に声を掛けられ、首を振って知らせると、体を支えられて洗面所に連れて行かれた。
「ほら、顔でも洗え」
 なゆみはいわれるまま、水を出し、勢い付けて流れる蛇口の水をすくって顔をジャブジャブ洗い出した。
 終わった頃に氷室からタオルを差し出され、なゆみは顔をぬぐった。
「どうだ、少しは楽になったか」
「はい。どうもすみません。でもうまい具合にトイレに駆け込めてよかったです」
「そっか、それはよかった。例えここが、ラブホテルでもな」
「えっ?」
 さらりと言われ、辺りを見回せば、ようやくその事実に気が付いた。
 清潔感溢れる空間。
 全体の色がマッチしたテーマを帯びたインテリア。
 そして何より部屋の真ん中にどでーんと大きなベッドが存在感を一番出していた。
 驚きすぎて固まっているなゆみに、ため息を漏らしながら氷室は言った。
「安心しろ、襲わん! それに用が済めばすぐ出て行く」
「あ、あっ、そ、その」
 成り行きとはいえ、初めて来てしまった事に動揺してしまった。
 ついじろじろとベッドを見つめ、目が離せなくなってしまった。
 変な空気が流れ、氷室も落ち着かず、部屋の隅に設置してあった革張りの椅子にどさっと無造作に腰掛けた。
「あのな、俺だからよかったけど、これが他の男だったらどうなってたかくらい想像を働かせてこれから飲め」
「す、すみません」
「失恋してやけくそになっていたんだろ」
「……」
「隠さなくてもいいよ、大体のこと分かってるから。昨日お前の友達が店に顔を出したよな。あいつだろ」
 なゆみは観念したように首を縦に一振りした。
「とにかく、落ち着くまでどっか座れ」
「はい」
 なゆみはベッドの端に腰掛け、しょぼんとしょげて縮こまると、氷室もまた疲れが出てきて、細い溜息が漏れた。
 あまりに静かになり過ぎると居心地が悪く、たまりかねてなゆみは心境を吐露してしまった。
「今朝、氷室さんに言われたあの言葉、その通りです。私、告白もしてないんですけど、てっきりいい仲になってるって思い込んでたんです。だけど彼に彼女がいることを知ってしまって、それで悲しくて昨日の夜はつい泣いてしまって、目が腫れました」
「そして、飲みに行く前に、そいつが彼女と歩いているところを見てしまった」
「えっ、どうして知ってるんですか」
「俺も奴の顔覚えてたんだよ。そして隣に女性がいたし、お前の態度見てたらすぐにわかったんだよ」
「氷室さんって洞察力ありますね。いつもきついこといって人を不快にさせますけど、本当のことで当たってるし」
「それって一応褒め言葉なのか。それとも迷惑行為ってことなのか」
「どっちも当てはまってるかも」
「おい、調子に乗るな」
「すみません」
「もういい、謝るな。俺もお前に謝らないとな。今朝、辛いときにきついこと言ってすまなかった」
 言葉は謝罪だったが、態度はどこかまだ素直になれず、子供が恥ずかしさのあまり、そっぽを向いて口を尖らしいるような話し方だった。
 それでも氷室にしては精一杯の陳謝だったから、なゆみは素直に受け入れた。
「いえ、そんなこともういいです。やっぱり氷室さんは正しい。私ほんとに子供で、ただ恋に恋してただけだったのかも。お酒をやけくそで飲んだのも、悲劇の ヒロインになりたかっただけなのかもしれない」
「もうよせ、どんな理由があるにしろ、それも人生の一部。悲劇のヒロインであろうが、喜劇の道化師であろうが、要は思いっきり心のままに行動したくなる時があるってことさ。お前はまだ二十歳だろ。なんでもできるし、なんでもありさ」
「氷室さん…… 私、氷室さんのこと誤解してました。すごい冷血漢だと思ってたし、それに私の中では一番苦手なタイプと思ってました。だけどそれは私以上の人生を経験されてるから、物事に冷静になれるんですね」
「そっか、苦手なタイプか」
 氷室はふっと笑ってしまった。
「いえ、今はその」
「いいよ、無理しなくて。その誤解は誤解じゃない。俺はほんとにただの冷血漢さ」
「でも困ったとき、助けてくれた。お客さんに怒られたときも、そして今だって」
「仕方ないじゃないか、俺はお前の上司だ。義務だよ義務」
 本当にそれだけだろうか。
 氷室は自問する。
「氷室さんはどうしてあのお店で働いているんですか」
「なんだよ急に」
「だって、氷室さんはもっと上を目指せるっていうのか、あっ、あの仕事が悪いっていってるんじゃないんです。貴賤するつもりはありません。その、なんていうのか、氷室さんにはあまり合ってないって思ったから」
「合ってない?」
「ごめんなさい。生意気なこと言って。でもいつも寂しげな瞳でコンピューター画面を見てるから、他にやりたいことあるのかもって勝手に思ってしまいま した」
「いつ俺のこと見てたんだよ」
「いえ、そのまたなんか言われるかとビクビクしてその……」
「まあいい。でも一回り下の子にそんなこと言われるとは、思わなかったよ」
「えっ、氷室さん32歳なんですか」
「ああ、君の目から見たらおっさんだ」
「いえ、すごく若く見えます。てっきり20代後半くらいかと」
「今更お世辞かい?」
「そ、そんな」
 氷室がまた不機嫌になったように思え、なゆみは気まずくなり黙り込む。
 白っとした空気が流れたようで、体感温度までもが下がったように思えた。
 なゆみも体が急激に冷え出し、急にぶるっと身震いしていた。
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