レ モネードしゃぼん

Side奈美 後編 2

 真実を告げた後の亜藍の寂しげな瞳は、それまで私が見ていた亜藍のイメージをすっかり変えてしまった。
 急に亜藍が自分とは違う世界に住んでいる人間に見えたからだった。
 まるで鶴の恩返しの鶴のように見てはいけない姿を見たために、亜藍はどこかへ去らなければならないという風に感じてしまった。
 それでもまだ私は信じきってない。
 だから嘘だって言って欲しくて粗を探そうとしている。
「フランス? それって亜藍、フランス語話せるの?」
「ああ、最初に学んだ言葉はフランス語だ。俺が子供の頃なんで無口だったか、そして読み書きができなかったか不思議に思わなかったか?」
 そんな風に言われたら、亜藍が人と話さなかったのは日本語が分からなかったからだったということになる。本当にそうだったの? 私はびっくりして口をた だ開け て亜藍の話を聞いていた。
「今ではすっかり日本語も不自由しなくなったけど、あの時は辛かったよ。だけど絶対フランス語は人前では話さないって決めてたんだ。初めて奈美と喋ったと き、奈美 が消しゴム拾ってくれたよね。思わずありがとうという言葉よりも先にメルシーって言いそうになったけどね」
「でも、亜藍は日本人顔だよ。なんでフランス人?」
「俺はいわゆるクォーターさ。おばあちゃんが生粋のフランス人。そして父が日本人とフランス人のハーフっていうところ。白人の血を少し引いてるから肌はそ の辺の日本人より白 いだろ。俺はフランスで生まれたんだ」
「おばさんもフランスに居たってこと?」
「うん、留学してて、そこで父と恋に落ちて結婚したみたい」
「でも森宮って名前は日本語だよ」
「それはおじいちゃんが日本人だからさ。苗字はそっちを受け継いだのさ。でもおじいちゃんはすでに他界してるけどね」
「じゃあ、長期休みになる度におばあちゃんの家に行っていたっていうのは、フランスにいつも行っていたってことなの?」
「うん。なにかとフランスはついてまわったよ。ついでに学校もフランス語で有名なところさ。だから俺は両親にそこに行かされたんだ。受かったのもフランス 語には不自由してなかったからだと思う」
「日本の国籍は取ってないの?」
「取るの忘れたんだとさ。酷い親だろ。樹里は今のところ二重国籍になってるけど、でもいずれはどっちか選ばないといけないから、樹里の場合後でどっちにし ようって選ぶのに苦労するだろうな」
「亜藍はそれじゃフランス人のままってことで、向こうでずっと住んじゃうの?」
 なんだか私の声が震えている。亜藍が本当のことを言っているって認めるのが悲しくなってきた。
「そういうこと。実はこの夏から向こうへ行こうかって計画しているんだ。おばあちゃんの元気なうちにね。フランスの大学を目指したいから、早めに向こうに 行って慣れておこうって思ったん だ」
「もう日本には戻ってこないって事なの?」
 さっきから質問ばかりして疲れたのもあったけど私は俯き加減で聞いた。なんだか目が潤んできてそんな顔を亜藍に見せたくなかったっていうのもあった。
「ビザが取れなければそうなっちゃうね」
「なんで、そんな大事なことずっと黙ってたのよ」
「黙ってた訳じゃない。なんか俺の拘りから言えなかったんだ。それに顔は日本人なのにフランス国籍だって知られたらもっと虐められると思ったのもあったけ どね」
 亜藍は淡々と語る。
 私は全身から震えが生じてきた。火山が爆発する前のお知らせの揺れのようだった。
「だからもし自分が居なくなったらどうするって、何が『もし』よ! 本当に居なくなっちゃうってわかってるんじゃない。居なくなっちゃったら、そんなの私 寂しいに 決まってるじゃない。亜藍のバカ!」
 私は耐えられなくなると同時に、なんだか急に腹が立って走り出した。
 ここは怒るところなんだろうか。
 なんだかわからない。
 ただ、イライラして何かに八つ当たっていた。
 それがこれから居なくなってしまう本人に怒りをぶつけるくらいだから、やっぱり逆切れだ。
「奈美、待てよ。なんで怒るんだよ」
 後ろから亜藍が追いかけて、腕を掴んできた。
「わかんないんだよ。なんか腹が立つの。放っておいて」
 私は亜藍が掴んだ腕を振り払って走って帰っていった。
 亜藍は諦めたのか、その後着いてこなくなった。
 家に着くと慌てて鞄から鍵を取り出し、乱暴にロックを解除する。
 家の中に急いで入ってドアを力強く閉めたのは、泣いてるところを誰にも見られたくなくて取り乱した心がそうさせていたからだっ た。暫く玄関で上下に肩を揺らして嗚咽を漏らす。
 靴を脱いで上がれば、足取りもだるく、薄暗くがらんとしていた家の中でヨタヨタとしてしまった。
 亜藍のお母さんに夕飯を食べていけと誘われたとき、母が支度をしているからと断ったが、働いている母がこの時間居ないことは分かっていた。
 あの時は亜藍と一緒に食卓を囲むのがどこか恥ずかしくて、つい無理をして断ってしまったのだった。
 私はもうすでに亜藍がどういう存在か無意識に分かっていた。
 それなのにやせ我慢するように自分の気持ちに正直になることを押さえ込んで知らぬフリをしていた。
 亜藍の真実を知って、自分の思うようにならない、どうすることもできない思いが心の中で暴れまくる。
 そしてそのイライラをいつものようにまた亜藍にぶつけてしまったのだ。
 私はイライラを沈めようとグラスを手に取り、蛇口から水を勢い良く出しグラスに注いだ。
 それを乱暴に口元に持っていき飲み込むが、変なところに入り込んで何度も咳き込んでしまう。
 息ができないくらい苦しくなった。
 暫く咳と一緒に喘ぎ、そしてやっと落ち着いてもその苦しさはそのままだった。
 その後、暗闇の中、レモンクリームパイを目の前にしてダイニングのテーブルに肘を突きながら一人ぼーっと座る。
 レモンクリームパイが二重にも三重にも見えて、そしてぼやけていた。
 亜藍が本当に居なくなる。
 遠い遠い海を越えた国。そして亜藍は日本人なのに日本人じゃないなんて。
 なんだか平凡だった毎日が急に非凡になった。
 これもあの石鹸を買ったせいなのだろうか。
 平凡を変えたかったために、普段買わないような物を手に入れたら違った世界になってしまった。
 これが私が望んでいたことなの?
 そう問いかけた時、携帯のメール着信音がタイミングよく鳴った。
 確認したら亜藍からだった。
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