第四章


「なぜ、すぐに教えてくれなかったの?」
「はっ、何を?」
「何をって、留学の話」
「別にいつ言おうと関係ないだろ。どうせ夏休み前には担任が言うだろうし。それを遠山が知ったからってどうなるんだよ」
「それは、そうだけど、でも、留年とか留学とか、『留』がよくつくね」
「ほっといてくれ。余計なお世話だ。それに、留学は一年だから、また学校に戻ってくるしさ、お別れって訳じゃないぜ」
 私は何を問い詰めてるのだろう。
 心の拠り所だった近江君が二学期から居なくなることが寂しいから、その気持ちをただぶつけてるだけだろうか。なんでこんなにもモヤモヤするんだろう。自分でもよくわからない。
 今、留学することを頑張ってと応援しなければ、私は今後近江君と今迄のように接する事ができないような気がする。
 だけど、なぜかイライラして、素直に『頑張って』と笑って言えなかった。
「一年留学しただけで、英語って話せるようになるのかな。ならなかったら無駄になりそう」
「お前、何が言いたいんだ。俺に留学は無理だって言ってるのか」
「そうじゃないけど……」
 私いつからこんなに捻くれたんだろう。本当は頑張ってって言いたいのに、意地悪な気持ちの方がでてきてしまう。
 私も結局は常盤さんや加地さんと同じ側の人間だった。気に入らなかったら攻撃してしまう。
 二人の事、悪く言えない。今の私はすごく醜い人間だ。
「まあ、いいけどな。一年後を楽しみにしててくれ。俺、必ず英語を物にして帰ってくるから」
 近江君は私の意地悪を笑い飛ばしていた。そんな近江君の顔を見るのが辛くて私は白々しく腕時計を見た。
「教室に戻らなくっちゃ。遅れたら大変」
「そうか、まだ時間があるけど。俺は借りたい本があるからそれを借りてから戻るよ」
 私は、碌に近江君の顔も見ずに、踵を返して図書室を去っていった。
 なぜだか胸が詰まって苦しくて、それが圧迫して涙が目に押し上げてくる。
 泣きたくなんかないのに、目が潤んで目の前がぼやけていた。
 
 複雑な思いを抱いたまま、午後はすぐに去っていった。昼休み以来、近江君がいる方向に首が回らない。自ら壁を作って一人で気まずくなっているような状態だった。
 近江君は授業が全て終われば速やかに教室を去っていく。その瞬間の廊下へと出て行く近江君の姿をチラッと見てしまった。
 希莉と仲たがいしてしまった時のあのやるせない気持ちがここでもあらわれる。とても寂しい、悲しい、気軽に近づけないと嘆くあの気持ちが再び私の胸に蓄積されたのはなぜだろう。
 留学を素直に応援できなかった私の意地悪な感情故に、私は近江君に以前のように接しられなくなってしまった。
 また一つ自分の周りが狭まっていく。それが心が狭いということだった。
 高校生活がこんなに閉塞感を感じるところだとは思わなかった。
 このまま早く家に帰りたかったが、今度は部活という試練が待っていた。これも足取りが重かった。
 この日の練習場所は押さえていたので、部員達はそれぞれやれる事をしていた。加地さんと櫻井さんが練習している部員と接触している間、私は一人部室で軽く掃除をして、その後はサッカーボールを磨いていた。
 最初はこの部屋の匂いに顔を背けたけど、入ってみれば気にならず、今ではすっかり慣れてしまった。
 自ら望んでやったことではないけれど、成り行き上、やらなければならない責任感を一人で負ってしまった。これも近江君が私をそうし向けた部分もあると思う。
 近江君が係わったから、こんな方向に来てしまった。
 それなのに近江君は私を巻き込みながら、関係ないとさっさとアメリカへ行ってしまう。
 私だけが巻き込まれたまま、足かせ付けられて働かされているみたいで、理不尽だ。
 近江君が留学してしまうことを知ってしまった今、もっていきようのない思いが私を苦しめる。
 一人もんもんとしながら、サッカーボールを強く擦っていた。
 そんな時に草壁先輩が部室に戻ってきた。
「よっ、千咲都ちゃん。一人で寂しくない?」
「えっ?」
 考え事をしていた私は突然の草壁先輩の登場にすぐさま反応できなかった。
「あれ、どうしたの。今日は暗いね。いつも以上にぼんやりしてる」
 草壁先輩は椅子を持ち出して私の前に座り、私が磨いたサッカーボールを手にして弄びだした。
「あの、草壁先輩」
「ん、何?」
「近江君が留学すること、知ってますか?」
「ああ、知ってるよ。かなり前から決めてたみたいだったぜ」
「櫻井先輩の事も?」
「うん、もちろん。櫻井はハルを追いかけて留学するんだ」
「えっ?」
「櫻井は一年の時からずっとハルの事が好きだったみたいだし。それに気がついたから、俺はバカな行動してしまったけどね」
「櫻井さんは近江君が好き……」
 ボールを磨いていた手が止まった。
「ハルは女の扱い方に慣れてて、上手いんだ。あいつ、かなり女と付き合ってたからな」
「あの近江君が」
「だから、言っただろ、ハルに騙されるなって。あいつは色んな問題起こしてさ、一時手が付けられなかったんだ。それもハルばかりが悪いとはいえないんだけどね。そっか千咲都ちゃんもやっとハルから留学の話を聞いたのか。ハルも少しずつ話し出してるんだな」
「どうしてすぐに教えてくれなかったんだろう。留年の事だって」
「ハルは一々自分の事を人に話したくなかっただけさ。今のハルは臆病になってる。昔は向こう見ずで怖いもの知らずだったんだけどね」
「草壁先輩と近江君は親友なんですか」
「もちろん。大親友さ。ハルのいいところも悪いところも、俺は知ってるからね。唯一俺だけが、ハルの事なんでも言える」
「だけど、櫻井さんが親友の近江君を好きだと分かったとき辛くなかったですか」
「千咲都ちゃんの言いたいことはわかる。そりゃ、一時は悩んだけど、今は吹っ切れたし応援してやりたいって思う。だから昨日は櫻井とハルを会わせたのさ。 今迄の櫻井への罪滅ぼしと、ハルがどういう態度に出るか見てみたかった。ちょうどそこに千咲都ちゃんがあの時現われたという訳」
 タイミングがよかったのか、悪かったのか、はっきり言えるのは何も知らなかった私がバカだった。
「そうだったんですか。私やっぱり近江君の事知ってるようで知らなかったんですね」
「もしかして猫被ってたハルに幻滅した?」
「猫被ってた?」
 近江君は本当に猫を被ってたのだろうか。私にはどうしてもそう思えない。
 休み時間を利用して勉強し、実際テストでもいい点数を取って常に努力している。あれが本当の近江君の姿だと思う。
 私に接してる時だって、嘘偽りなんかなかった。だから心地よくて私は近江君が気になって──。
「ねぇ、千咲都ちゃん。今は部室に誰もいないし、二人だけのいいチャンスだと思わないかい?」
「はい?」
「それでは、マネージャーにお仕事の依頼をします」
「は、はい」
「キスお願いします」
 草壁先輩は顔を近づけてきた。
「えっ、えーーーーー! ちょ、ちょっと待って下さい」
「ほら、俺達の他に誰もいない部室。そこにかわいいマネージャーとエースの選手。すごいいいシチュエーションじゃない。俺、興奮してきちゃう」
「草壁先輩! 冗談はやめて下さい」
「これもマネージャーの仕事のうちだよ」
「うそっ!」
 草壁先輩がまじかに迫ってきていた。
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