第五章
5
氷室とのデートまであと何時間と、なゆみは時計を見ながら退社時間を楽しみに仕事を片付けていると、美衣子が気まずい雰囲気を漂わせて連絡事項を伝えて
く
る。
なゆみはもう気にしてないと笑顔を見せると、美衣子もほっとしたのかまた雑談を交えてきた。
この人物は感情の起伏が激しいだけだと、上手く付き合える方法を習得すればなんとか乗り切れるとばかりに、なゆみは美衣子に惑わされないようにしようと
肝に命じ
る。
機嫌さえ良ければ問題はない。そこで雑談を適当に付き合っていたとき、彼氏の話になった。
「えっ、斉藤さん、彼がいるの?」
「はい、います。ついでに今日はデートなんです」
「なんだ、そうなの。それなら早く言ってよ。てっきり、五島さんを狙ってるかと思ってた」
美衣子は本当にわかりやすいとなゆみは苦笑いになっていた。
ライバルが減ったとでも思って、すっかり気が楽になってきたのか、美衣子はなゆみの彼について詳しく知りたいと聞いてきた。
「で、彼氏は年いくつ?」
「33歳です」
「そんなに年とってるの? おじさんじゃない」
美衣子の頭には中年の禿げたイメージが浮かんでいた。
「でも、大好きなので年は関係ないんです」
なゆみもムキになって抵抗してみたものの、この人の性格上何を言っても無駄だと言った後で虚しくなる。
これ以上のおしゃべりはいけないと、なゆみは仕事に取り掛かる。こんなときに限って残業が入らないことを願いつつ、がむしゃらに残りを働いた。
大量の資料を手にして、廊下で鈴木部長とすれ違ったとき、なゆみはつい意味ありげににこやかな顔をしてしまう。
鈴木部長はそれに気がついて声を掛けてきた。
「なんか楽しそうに仕事してるね。いいことでもあったのかい」
「いえ、別に、その。でも良いことがあるといいですよね」
「そういう気持ちで働くのは良い心がけだ。頑張ってくれたまえ」
「はい。部長も頑張って下さいね」
なゆみは言ってしまった後でしまったと思ったが、誤魔化して笑ってみる。
鈴木部長も合わせて笑うが、まだ何かなゆみに話したそうなそぶりを見せていた。
なゆみが気を利かせて「何か?」と聞くと待ってましたかのように鈴木部長は話し出した。
「今日、小山課長とお昼に外に出かけたのを見たのだけど、斉藤さんは小山課長とはどうやら仲が良いみたいだね」
遠まわしに言ってくるが、なゆみには鈴木部長の気になっていることがわかっていた。
「はい、色々率直に話して下さるので私も有難いと思ってます」
「それはよかった。私では話しにくいことも斉藤さんの前なら話せることもあるだろうし……」
「そうですね。プライベートなことも話せるので嬉しいです」
鈴木課長は詳しく聞きたげにしていたが、なゆみはその後はご自分でどうぞとにこやかに笑みを向けその場を去って行く。
そして今度は五島と出会った。鈴木部長とはにこやかな笑顔を見せていたが、五島と会うとなゆみは顔が急に曇った。
無難に会釈をして交わそうとするが、五島はその態度が気に入らなさそうに声を掛けてきた。
「斉藤さん、今日はなんか変だね。でも鈴木部長と話していたときは笑顔だったから体調が悪いってことでもなさそうだ」
五島はしっかりと見ていたのか嫌味っぽく聞いてくる。
なゆみがしどろもどろになりながら、返事に困っていると、五島は急に苛立った顔を見せそしてつっけんどんに話し出した。
「鈴木部長に何か吹き込まれたのか? 昨日一緒に昼食を取ってただろ。そしてその時僕のことを話していたんだってね。ちょうど近くに僕の知り合いが居てそ
れ
を見ていて教えてくれたよ」
「あの、その」
「まあいい。君が悪いんじゃないのはわかってるよ。君から聞くよりも、直接鈴木部長に聞いてくるよ。ちょうど話したいこともあったし」
五島はそういうと、前を歩いていた鈴木部長を追いかけて走っていった。
なゆみは呆然とその様子を見詰める。
五島は堂々とした態度で、背筋を正して鈴木部長に果たし状を突きつけたように話があると申し出ていた。
まるで雷が突然落ちた様にどこか荒れ狂い、激しい決闘が起こりそうだった。五島は鋭いシャープな声を発し、喧嘩を売ってるみたいに見えた。
二人はここではまずいとどこかへ去って行った。
なゆみは一荒れしそうな雰囲気を懸念しつつ、それでも何もできないと部屋に戻っていく。
そして、あまりの不安な気持ちから未紅の耳元でこそっと見たことを報告した。
すると未紅までも驚き、立ち上がったと思うと慌てて部屋を出て行った。
何があったのだろうとなゆみは心配になり後を追うと、それを見ていた美衣子も野次馬的についてきていた。
会議室、給湯室、資料室など見て回るが二人の姿が見えないと、未紅はもしやと階段を上り屋上へと向かった。
なゆみも必死についていき、学生時代に体育の授業で味わった持久走の苦しさを思い出しながら、胸からこみ上げる辛らつな息切れに襲われていた。
屋上に出ると、そこには鈴木部長と五島が対決するように睨み合い、何かを言い合っている。
その間に未紅が割り込み止めようとしていた。
なゆみはドア付近で見守っていると、後ろからそっと同じように美衣子が顔を突き出していた。
「五島君、やめなさい」
未紅が叫んでいる。
「いや、もう我慢できない。部長には堪忍袋の緒が切れた。今まで下手にでていたけど、もう嫌だ」
五島が吼えた。
「五島君、私が一体何をしたのかね?」
鈴木部長は落ち着いて対応している。
なゆみは一体何が起こっているんだとハラハラしてきた。
「もうわかったから。全て私はわかったの。五島君、部長に何を言っても無駄よ」
「ほら、小山君も私の味方だ。これでわかっただろう」
鈴木部長は急に背筋を伸ばし勝ちを誇ったように反り返った。
五島は悔しがり下唇を噛んでいた。
そして未紅は五島に近寄り、目をじっと見つめる。
「今まで張り合ってごめんなさい。これからは素直になる。今まで待ってくれてありがとう。今からは五島君のこと真剣に考える」
未紅の言葉で、誰もが皆驚いた。
鈴木部長は顎が外れたくらいに大きく口を開けて目を見開いた。
五島も驚いたが、すぐに笑顔になり、未紅を見つめ返してそして抱きしめた。
なゆみは「へっ」と思いながら全くどうなってるのかわからないまま、その場で突っ立っていた。
美衣子は好意を寄せていた五島が、未紅と抱き合っていることにショックでぶっ倒れそうになるのを出入り口の壁を必死で抑えて耐えていた。
「鈴木部長、あなたが全てを企んだことはもうわかってます。私に五島君を敵視させるように仕向け、そして私の仕事が上手く行かないように斉藤さんを利用し
て仕事を失敗させようとした。私はあの時の斉藤さんのミスの内容は誰にも言わなかった。それなのに鈴木部長は斉藤さん本人に書類を失くしたミスと伝えてい
た。それに気がついたのは随分後だったけど、ふとそのことを思い出したときはっとしたの。誰も知らないことを知っているのはミスをした斉藤さんとそれに気
がついた私とそしてそのミスを仕掛けた本人のみ」
なゆみは真実に驚いた。第一印象が悪代官にみえた鈴木部長はやっぱり悪代官だった。
「何を話しているんだ。それは五島君が小山君を落としいれようとしたことじゃないのか。五島君も出世を狙っていたからね。それに五島君は女癖も悪いと評判
だ。実際そのことで外部から忠告を受けた」
「鈴木部長、この場に及んでまだそんなことを言うのですか。あれは鈴木部長が吹き込んだことでしょう。僕が女癖が悪いと先に噂を流し、小山課長も人づてに
何人からも聞いたためについそれを鵜
呑みにしてしまった。それは小山課長に好意を抱いている僕から彼女を引き離すためにやったことでしょ。僕は確かに優しく女性に近づいたけど、それはただの
気遣いであっ
て、決して下心を持っててやったことではなかった。部長はそこを大いに利用した。更に噂だけでは信憑性がないからといって、あの時のイベントでアルバイト
をした女の子を個人的に雇って、
僕がその人に言い寄ってるという状況を作り出した。いわゆるハニートラップ。僕は仕事の話と聞かされて出向いてしまい、そこで彼女と出会ってまんまと嵌め
ら
れた。彼女は役者でしたよ。しつこく誘われたと完全に嘘を突き通して会社にクレームを入れた。会社はそういうことには神経質になり、大事にならないように
相手の言い分を聞い
てしまった。僕は身の潔白を証明する術がなかった。だからその誤解を解こうと直接本人に掛け合ったけど、金を貰った
後だったのか頑なに嘘を突き通されてしまった。そして僕だけ濡れ衣を掛けられて後は部長がその問題を解決したかのように処理をして、会社はそれ以上そのこ
とについては取り上げなかった。上手く収まったために僕は首にこそはならなかったけど、そのせいで女性問題を引き起こす
注意人物として見なされてしまった」
なゆみはやっと話の筋が見えてきた。
五島の説明でなぜ五島が愛子と話し合っていたのかが理解できた。
そして未紅も真相を追究しようと付け足した。
「鈴木部長、私が仕事に失敗をして会社にいられないようにもっていき、弱ったところで私が鈴木部長との結婚を考えるとでも思ったのですか。会議で他の社員
から冷たくあ
しらわれた後に、部長が私を労わったのも作戦のうちだったんでしょ。そして五島君が
私に好意を寄せていたことを部長は知っていた。だから情報操作をして邪魔をしたんですね。私も危うく騙されるところでした。でもある友達の助言で救われま
した」
(友達の助言?)
なゆみはその部分にひっかかりながらも、鈴木部長のしたことを見ているとある人物が浮かび上がった。
(まるでやり方がスコットみたい。もしかしてこれはスコットが吹き込んだこと? だったら最悪のアドバイスだ)
ありえるとばかりになゆみは腕を組んで頷いてしまった。
鈴木部長は悔しい思いを抱きながらも、お終いとばかりに崩れこんで地面に膝をついてしまう。
「部長、もう二度とこのようなことをしないというのなら私たちは水に流します。元はと言えば、部長が私に好意を抱いてくれたからであり、私はこのようなこ
とをされたからといって法的に訴える気もありません」
未紅の寛大な気持ちに観念したのか部長は二人に許しを請う。会社にバレてしまえば自分の地位も危うい。
「すまなかった」
それを尻目に、全て終わったと未紅と五島はお互いを見詰め合った。
未紅が言っていた『そろそろ返事しなきゃ』の相手は五島だった。
なゆみもとんだ間違いを犯していたと、自分の早合点を反省する。これが氷室の言う首を突っ込むなということだった。
未紅と五島はなゆみの元へと近づく。
「斉藤さん、お見苦しいところを見せちゃったわね。でも斉藤さんのお陰で解決したことなのよ。本当にありがとう」
「いえ、私何もしてません」
なゆみはブンブンと首を横に何度も振っていた。
「斉藤さん、そして後ろにいる梶浦さん、今見たことは誰にも言わないで欲しい。僕たちのことも当分は誰にも知られずにいたいんだ」
五島が優しい笑顔で頼み込む。
なゆみはもちろんと言いたげに「はい」と返事をしたが、美衣子は五島のお願いだということでショックを受けながらも頷いて承諾する。
「さあてと、こんなことしてられないわ。仕事仕事」
未紅はケロッとして持ち場に戻る。五島も足取りが軽かった。
しかし、その場に残された鈴木部長と美衣子はどんよりとしていた。
なゆみは見かねて、鈴木部長の側に近寄り肩に触れる。
「鈴木部長、帰りましょう」
「斉藤さん、ミスをなすりつけてすまなかったね」
「いえ、もういいんです。鈴木部長は私に仕事を紹介して下さいましたし、感謝しています」
鈴木部長はその言葉で目が潤んでいた。
なゆみは鈴木部長と美衣子を労わりながら持ち場へと戻っていった。
これで終わったと一息ついたのも束の間、またその後予期せぬ展開へと巻き込まれてしまうのだった。